終戦後、共産党幹部の釈放運動を開始した在日朝鮮人たち 驚くべき情報網と活動内容とは
動き出した在日朝鮮人
金斗鎔は、戦後の日本共産党の再建に大きな役割を果たした人物である。東京大学を中退し、『在日本朝鮮労働運動は如何に展開すべきか?』(1929年11月)を執筆、工場の日本人と朝鮮人労働者が連帯し、闘争すべきであると訴えた。そして産別労組の組織化と、大日本帝国の朝鮮統治への抵抗にむけ本格的な政治活動を始め、1930年に投獄された。4年後に出獄するが、その後何度も投獄されている。終戦時は転向していたものの、革命の志を変えることはなかった。そして日本の敗戦を機に、「朝鮮の大日本帝国からの完全な独立」と「人民共和国建設」の革命を成し遂げるため、共産党の政治運動の母体として、在日本朝鮮人連盟を組織する決意を固めたのである。
椎野から朝鮮人指導者・金天海(本名・金鶴儀)の手紙を受け取った金斗鎔は、早速「政治犯釈放運動促進連盟」の活動に着手した。府中刑務所をはじめ、全国の刑務所に拘留されている約3千人の政治犯の釈放を求め、GHQや政府関係機関に陳情し、ビラ配りなどの行動を開始した。
金斗鎔を委員長とする「政治犯釈放運動促進連盟」は、新宿角筈の朝鮮奨学会のビルに事務局をおいた。現在の住所では新宿区西新宿1-8-1、新宿駅に近く、戦前は朝鮮総督府が所有していた建物である。
警察署の2階に事務所を開所
朝鮮奨学会は、朝鮮に進出した野口遵(日窒コンツェルン)の私財500万円を原資に、朝鮮人留学生を支援するため設立された団体で、川岸文三郎陸軍中将が理事長を務めていた。終戦時、学生たちが宿泊をしていた同ビルの1階には、5月末に空襲で建物を焼失した淀橋警察署が入居していた(「警視庁史」)。つまり金斗鎔たちは淀橋警察署の2階で、「在日本朝鮮人連盟結成中央準備委員会」の事務所を開所し、ここを拠点に政治犯釈放運動や日本共産党再建運動を展開するのである。
9月14日には、学生たちも金斗鎔の下で在日本朝鮮学生同盟(学同)を結成、政治犯釈放運動に参加し、急速に左傾化していった(高峻石『在日朝鮮人革命運動史』柘植書房。民団ホームページ「在日韓国学生運動の歴史」)。
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