「妻が駆け落ちして半年たちます――」 悩める53歳男性、その“出生”にまつわる奇縁

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「私、あなたに隠していたことがある」

 子どもたちはまっすぐに育ち、受験などで人並みの苦労はあったのかもしれないが、長男はすでに大学を出て就職し、2年前に家を出ていった。長女は大学を卒業したものの再度、別の大学に学士入学している。

「義母は2年前に他界しました。最後まで自立した人で、具合が悪かったみたいなんですが、僕たちに何も言わなかった。安佳里が朝起きて階下に行ったら、朝早い母親がキッチンにいない。おかしいと思って寝室を覗いたら寝ている。どうしたのと声をかけても返事がなくて……。脳溢血で亡くなっていたんです。2日ほど前から『頭痛がひどい』と日記に書いてあるのをあとから知りました。一言言ってくれれば病院に連れていったのにと、安佳里は号泣していた。70代後半になっていたのだから、もっと日頃から気をつけてあげればよかったって。だけど元気そのものでしたし、年寄り扱いしないでよといつも言っていたから、こっちも気づいてあげられなかった」

 そこから安佳里さんの様子がおかしくなった。とうとう母とわかりあえないままだったという思いがどんどん大きくなっていったようだ。それはしかたのないことだと浩毅さんは話した。自分の出生の秘密を、ようやく話せるかもしれないと思ったとき、安佳里さんは「私、あなたに隠していたことがある」と言い出した。

「妻は僕を傷つけようとしたわけではないと思う。自分が母親とのことでどうにも解決できないわだかまりを抱えていたから、自分の傷を軽くしたくて言ってしまったのかもしれない。でもそれは僕を後ろからバッサリ斬るようなものでした」

 浩毅さんはそこで言葉を切った。次の一言がなかなか出てこない。

「実は……長男は僕の子ではないというんです」

 そう来るのかと彼は思ったと言う。まさに自分と同じ運命を長男に押しつけてしまったことになる。2代続いてそんなことがあるのか。妻の裏切りより、運命のいたずらのほうが堪えたと彼はしみじみとした口調で言った。

「今さらそんなことを言われても、長男はもう独り立ちしている。どうして今、そんなことを言うんだとくずおれてしまいました。安佳里は『ごめんね』というばかり。僕は結局、自分の出生の秘密を安佳里には言えないままでした」

 安佳里さんは、夫が傷ついたのは自分が浮気したからだ、裏切ったからだと思っただろう。そのことで彼女自身も傷ついていった。浩毅さんは、なるべく普通に暮らそうと心がけていたが、ふとした拍子にため息をついたり暗い顔をしたりしていたようだ。安佳里さんはたびたび「ごめん」を繰り返した。

「大丈夫。少し落ち着いたら、僕も安佳里に話したいことがある。そう言ったのは覚えています。この際だから出生のことを話しておいたほうがいいかもしれない、だけど安佳里の告白を先に聞いてしまったのでタイミングがわからなくなっていた。そうしたら安佳里はわかった……と」

 だが安佳里さんはその話を聞く前に、突然、失踪してしまったのだ。安佳里さんが消えた翌日、長いメッセージが来た。

「なんと安佳里は、長男の父親である男とどこかへ行ってしまったんです。その男とは大学時代の仲間だったそうです。不倫関係を解消してから長い間、音信不通だったし、彼の行方もわからなかったから、一度も会っていなかった。でもある日突然、家の固定電話に彼から電話がかかってきて安佳里がとった。母親が亡くなって半年後くらいのこと。男は彼女の母親とも面識があったから、線香をあげさせてほしいと言った。でも安佳里は断った。せめて一目会いたい、友だちとしてと言われて、安佳里も心が動いた。会ってみたらさらに心が揺れた。相手は一度も結婚していなかったそうです。当時、安佳里が妊娠していたのではないかと少し疑いながら、怖くて逃げたと告白されたが、子どもは夫の子だと押し通した、と」

 それでも会って話しているうちに、当時の感情がよみがえってしまったのかもしれない。ちょうど安佳里さんの勤務先では早期退職者を募集していた。それに応募して退職金を上乗せしてもらい、それを持って遠くへ行ってしまったのだという。

 話を聞いて、私はぽかんとするしかなかった。何がどうなってそうなったのか、すぐには把握できなかった。結婚して27年もたつのに、いくらかつての恋人とはいえ、そんなに身も心も翻すことができるものだろうか。

「忘れ物を取りに行く。安佳里はそんなふうに書いていました。忘れ物が大事かどうか確認したいと。僕らの生活は何だったのかと言いたくもなったけど、あれから半年たって、彼女の言い分もなんとなくわかるような気がしてきたんです。この年になると、確かに忘れ物を取りに行きたくなることはある。実は僕の母、80歳を超えて今は施設にいるんです。ときおり会いに行きますが、だんだん僕が誰であるかもはっきりしなくなっている。若いころ、浮気したかどうか、いつも聞きたくてたまらない。だけど聞けないんです。きっと母が亡くなったら聞いておけばよかった、その答えがどういうものであろうとも、と後悔すると思う。それがわかっていても、今は聞けない。自分がそんな迷いの中にいるから、安佳里が確認したい気持ちも少しわかるんですよね」

 いつか安佳里さんが戻ってくるのかどうか、それもわからない。同居する長女には、長男が自分の子ではないこと以外、浩毅さんの出生も含めて正直に話した。長女が母の出奔にどんな思いを抱いているのかははっきりしない。ただ、彼は「おとうさんはおかあさんを待つつもりだ」と言った。

「待つつもり、というのはちょっとええかっこしいでしたね。別れる勇気がもてないというのが本当のところかもしれません」

 自分の出生も含め、息子のことも妻のことも、何も整理できない、解決もできない。その混沌とした状況の中、浩毅さんは今日も「ごく普通に生活しようと思っている」と、ごく普通の口調で言った。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部

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