【袴田事件と世界一の姉】キャバレー時代の知人が述懐「警察は事件直後に巖さんを犯人と決めつけていた」
「巖さんにあんなズボンがはけるはずない」
当時の「太陽」は、「東海一」と謳われたキャバレーだった。蓮昭さんはもともと『高原の駅よ、さようなら』などで一世を風靡したクラシック出身の歌手の小畑実(1923~1979)のバンドマンだった。東京・足立区に育った昭子さんは、ドラムを叩く蓮昭さんを見て「かっこいいなあ」と惚れ込み、父親の反対を押し切って結婚したそうだ。ところが、その後バンドは解散。困っていたところに、かつて清水市で巖さんが所属していたボクシングジム「串田ジム」の串田昇さんから「『太陽』のバンドマンにならないか」と声がかかり、渡邉夫妻は東京から清水に移り住んだそうだ。夫妻も巖さんも「太陽」の寮に住んでいたので、親しくなった。
「物干し竿にかけてある服をいつも見ていました。だから、巖さんが裁判でズボンを履く実験をしていた写真を見て、あんな小さなズボンが巖さんに履けるはずないと思っていましたよ」と振り返るのだ。ズボンとは、後に犯行時の着衣とされた「5点の衣類」の1つのことだ。
「『太陽』で働いていた頃に巖さんは結婚しました。奥さんはいい子だったけど、かなり気の強い性格でしたね。息子さんが生まれたのは『太陽』を辞めて『暖流』を始めてからでした」と振り返る。
巖さんの性格について「こっちが話しかければ『そうだよ』なんて言うんだけど、自分からは滅多に話さない無口な人でした。みんなとは仲良くはしていたけど、麻雀も誘われてたまにやる程度。ほかのバクチなんて何もしなかった」と話す。事件が起きてすぐに巖さんが犯人として浮上した頃について「『太陽』のホステスの子たちも『あの人がそんなことするはずがない、絶対違う』と口をそろえていました」と振り返る。
「死刑判決が出た時(1968年9月)も主人は『そんなはずはない』の一点張りで怒っていましたが、どうしようもなかった。私も高齢で何も支援の手伝いができないけど、なんとか早く無罪になってほしい」と話す昭子さんの椅子の足元で、生前の蓮昭さんが拾ってきて可愛がっていたという猫のマメ君が甘えていた。
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