「万歳!」戦後、出獄した共産党員が受けた朝鮮語の歓迎 隠された党の歴史を紐解く
終戦前夜の獄中で
1945年8月14日、府中刑務所の共産党幹部らは終戦の日が近いことを察知していた。
「一四日の晩、明日正午にラジオの前に集まれというんです。空襲がどんどんあるのに、ラジオの前に集まれなんていうのはおかしい。これはもう無条件降伏だと分かりました。その夜中に、どんどんと兵隊の足音が聞こえるのです。東京から遠ざかる方へいくので、これはもう間違いないと思いました」(山辺健太郎『社会主義運動半生記』岩波新書)
「敗戦はもはや歴然で、役人たちの方でも、もはや私たちを取りしまる気力もうせていたようだった。新聞でもラジオでも、自由に見たり聞いたりすることができた。それでドイツの降伏のニュースも聞くし、むしろある意味では、一般の人よりも平静で、客観的に情勢を判断できて、無条件降伏の発表を待ちかまえているのだった」(志賀義雄『日本革命運動の群像』合同出版社)
「監獄の外を、軍隊が相当多数移動しているようすがわかった。それであちこちの高い塀に党員を立たせて外のようすをうかがわせたところ、一人が、たしかに指揮官らしい者の声で、『今晩はしっかりあるけ。あるくのも今日で最後だから』というのがきこえたという。これはもういよいよ降伏だと考えたが、とにかく明日を待て、今晩はゆっくり寝よう、というわけで、その夜は明けて八月一五日になった」(志賀・同前)
府中刑務所内の空気は一変
軍靴の音は遠ざかり、静けさの中で8月15日の陽は昇った。
「朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾臣民(なんじしんみん)ニ告ク(ぐ) 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ……」
玉音放送が流れた時の様子を、志賀はこう書き記している。
「正午、所長の命令で全員集合して、マイクの前に立たされた。全員三十人位。朝鮮人が三人、天理教徒が二人いる。天皇の声がきこえてくる。放送に慣れない人がやるせいか、なんだかキンキン声でよく聞きとれない。が、前にいる所長が首をうなだれて、肩をふるわせている光景からも、すべてを直感した。隣りの徳田(球一)を見ると、天井を向いて平然としてうそぶいているような表情だった」(志賀・同前)
天皇陛下が玉音放送で「終戦の詔書」を読み上げると、予防拘禁所の刑務官たちは深いショックを受け、気力が半ば失せたような様子になったという。
もっとも獄中の徳田球一はこう戒めた。
「徳田君はあんまり調子にのらないようにというんです。(略)それだけ慎重だったのです」(山辺・同前)
それでも徳田は「自分たちの解放も時間の問題である」と、自主管理を申し入れ、それが許可された。
その日から府中刑務所内の空気は一変し、不自由さにも厳しさがなくなっていった。しかしながら、徳田たちはすぐに釈放されたわけではなかった。
(敬称略)
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