「万歳!」戦後、出獄した共産党員が受けた朝鮮語の歓迎 隠された党の歴史を紐解く
府中刑務所の「日本共産党第1世」たち
日本共産党は、1922年7月、渋谷の民家で開かれた最初の党大会で産声をあげた。以来、一度も党名を変えていない日本で唯一の政党である。今年、結党100年を迎える。もっとも組織としては、結党2年後の1924年に解党を決議し、いったんは解散していた。
大日本帝国が国家総動員体制で総力戦を闘った先の大戦で、政府は国内秩序の維持と安全のため、思想犯を厳しく弾圧した。戦時中、共産党員の政治活動はそのイデオロギーと反社会的な運動ゆえに、常に当局の監視の対象だった。
このため日本人共産主義者の多くは、弾圧に耐えかねて転向するか、戦地に赴き、愛国者として闘うか、または思想犯として獄中にあった。そして府中刑務所の予防拘禁所には、日本共産党第1世と呼ばれる人たちが収監されていた。
日本共産党の指導者で絶大な影響力をもつ不破哲三は、戦後の共産党について、
「一九四五年十月に獄中から解放されたひとびとが中心になって、党をつくり、活動を開始した」(不破哲三『日本共産党史を語る』新日本出版社)
と、記している。
党再建の中心となった府中組
また日本共産党に代々木の党本部の土地と建物を寄贈した岩田英一は、府中組の出獄が戦後の共産党再建の起点となったことを次のように証言する。
「もちろん徳田、志田、黒木ら『府中組』だけでなく、前後して全国各地の刑務所で政治犯が釈放されましたけれども、やはり『府中組』の出獄を第一義的に考えなければならないでしょう。『府中組』の出獄は日本共産党が歴史上、初めて合法政党として存在し、戦後における日本政治を革新の方向で担う起点になっています。党の再建も『府中組』が中心となって担い、また日本社会運動も『府中組』のリーダーシップのもとに再出発しています」(吉田・同前――岩田氏証言)
当時の日本共産党幹部が「天皇制打倒」を叫びながら府中刑務所より出獄し、党を再建したことは、党史にも深く刻まれている。
その「府中組」が戦後の日本共産党再建を担ったのは間違いあるまい。しかしながら、その道筋はいかなるものだったのか。
それを明らかにするために、ここから時間を終戦前夜に遡ってみる。
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