「万歳!」戦後、出獄した共産党員が受けた朝鮮語の歓迎 隠された党の歴史を紐解く
宮城刑務所でも
では、その朝鮮人とはどんな人たちだったのか。続けてこんな記述がある。
「群衆はすぐ我々を取り巻き、トラック七台に分乗して田村町の飛行会館に準備された歓迎式場に向かった。赤旗を振りながら示威行進をしたが、中野駅近くで米軍憲兵に制止され解散になった。この群衆が朝連準備委に所属している左翼勢力であるということを後で知った」
この10月10日前後には、日本全国の刑務所から続々と政治犯が釈放された。府中に限らず、全国の刑務所でも政治犯を温かく迎えたのは、朝鮮人の共産主義者たちであった。
元日本共産党宮城県委員会事務局で朝鮮人部部長を務めた高橋正美と元日本共産党宮城県委員会委員長・遠藤忠夫の対談を、和光大学教授の篠原睦治が記録した文書にも、その事実が出てくる。ここで遠藤忠夫は、敗戦の年の10月10日の思い出を次のように語っている。
「この日私は、宮城刑務所の前の桜並木でボンヤリと立っていました。刑務所からは、一人ひとりポツン、ポツンとしばらくの間をおいて出てきましたが、彼らを出迎えていたのは、日本人ではなくて、朝鮮人だったのです。当時マツダ三輪トラックというのがありましたが、それに卵を山と積んで新聞紙にくるんで、日本人一人ひとりに『ご苦労さまでした。これで元気を出してください』と言って、渡しているのです」(遠藤忠夫「証言3 宮城県共産党と仙台の在日朝鮮人社会―高橋正美さんと遠藤忠夫さんのお話〈地域社会における在日朝鮮人とGHQ〉」「東西南北別冊01」2000年12月1日 和光大学リポジトリ)
日本共産党の原点
そこには戦時中の弾圧を乗り越えた強い絆と連帯があったのだろう。それがさらには、戦後の共産党再結成にも大きな役割を果たしていくのだが、意外にもこれら原点となる事実について、日本共産党はほとんど語ることがない。
日本共産党中央委員会のまとめた共産党史(八十年史、七十年史、六十年史、五十年史)は、いずれも(1)政治犯の釈放、(2)党拡大強化促進委員会の発足、(3)「赤旗」の再刊、(4)第4回党大会の四つを、戦後、党の再建を代表する重要な出来事として挙げている。すなわち1945年10月10日の日本共産党幹部の府中刑務所出獄から12月の第4回党大会までを、党再建の起点としている。だが党史は、「いつ、どこで、誰の手によって、どのようにして、また何の財源で再建したのか」という疑問には答えていない。
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