肺活量が半分以下の橋本聖子はなぜ強かったのか 原点は病弱だった幼少時代に(小林信也)

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ストレス性呼吸筋不全症

 すぐ頭角を現し、高校1年で81年全日本選手権総合優勝。ところが、五輪の星と期待されていた高校3年の時また病魔に襲われる。腎臓病が再発、さらに、

「ショックで精神的に病んじゃったんです。PTSDで、深呼吸のできない身体になってしまいました。胸の筋肉に麻痺がきて深呼吸ができない。自分の力で酸素が吸えなくなって、酸素マスクをしながら入院していました。つけられた病名は“ストレス性呼吸筋不全症”。それ以来、腹式呼吸しかできません。胸の筋肉が開かないんです。肺活量は2400、トップ選手の半分しかありません。最大酸素摂取量(VO2MAX)はトレーニングの質を変えてなんとか高くしました」

 肺活量2400は一般女性より低い。大学進学をあきらめ、富士急を選んだのもそれが理由だった。

「いまは室内で空気圧を変えられる時代ですけど。当時は筑波大学で登山のための気圧変化を研究する施設しかありませんでした。富士急は富士山の5合目でトレーニングをやっていると聞いたので選びました」

 胸を大きく開いて呼吸できない状態はいまも改善していない。その身体で夏冬7度の五輪に出場した。

「私は練習を休みたいと思う気持ちがないんです。病気でできない日々が長かったからでしょう。10代のころから、自分の肉体を精神が励ましてやってきた、そんな感覚があります。自分を追い込む肉体を持てる幸せをすごく感じます」

 92年アルベールビル五輪1500メートル。最終組を残して3位。残る2人の中には500メートル優勝のブレア(米)がいる。橋本が言う。

「ブレアとはすごく仲がよかったので、最後に滑るブレアを応援していました。私は、1500メートルは3位でも4位でもどっちでもよかった。次の1000メートルでメダルを狙っていたので」

 ブレアは、カルガリーで橋本がゴール後に倒れた時、真っ先にドリンクを持って駆け寄ってくれた仲間だ。500メートルが得意なブレアは後半失速、橋本が銅メダルに輝いた。レース直後、橋本は取材にこう答えている。

「ひとつもメダルがないのは可哀想だから、ひとつくらいあげようかという神様がいてくれたのかなあと思います」

 2日後の1000メートルは5位。それがいまも「悔しい、心残りだ」という。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2022年2月24日号掲載

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