肺活量が半分以下の橋本聖子はなぜ強かったのか 原点は病弱だった幼少時代に(小林信也)
橋本聖子が現役のころ、NHKテレビ「スポーツ100万倍」で、橋本のボールを受けた経験がある。
両手を頭上に伸ばし、上体をきちっと三塁方向に向けた後、オーバーハンドで綺麗に投げ込んできた。その球威に思わず声を上げた。スピードガンの表示は「100キロ」。数字以上にガツンとくる重みがあった。
昨春、東京2020開催をめぐって久々に会った時、真っ先にその話になった。
「スタジオが狭かったので、きちんと数字が出なかったんだと思います」、27年前の話を覚えていて、橋本が言った。「私、納得がいかなくて、別の場所で測ってもらったんです。そしたら120キロでした」
確かにあの球威ならその数字の方が妥当だろう。納得する私を見て、橋本は満足そうに胸をそらした。
(この人、本当に負けず嫌いなんだな)
思わず心の中で笑いがこぼれた。彼女は気取ることなく、無邪気に笑った。
父の鞭
1964年の東京五輪に感動した父・善吉が聖火にちなんで「聖子」と名付けた話は広く知られている。その父が生前、テレビのインタビューにこう話している。
「まだ幼いころ、『自転車の補助輪を外しても乗れるか?』と聞いたら『乗れる』と言うので外したら、乗れなかったんだ」
父は「嘘をつくな!」と叫んで、薄氷の張った自宅前の池に聖子を投げ込んだ。驚くのはここからだ。翌朝まだ暗い3時ごろ、聖子が母に聞いたという。
「父さん、起きてる?」
「どうして?」
「聖子、もう自転車に乗れるようになったよ」
88年カルガリー五輪で女子スピードスケート全5種目に出場、すべて日本記録で入賞した。最後の5000メートルでゴールと同時に意識を失い、氷上に倒れ込んだあの姿は幼いころから培われた負けん気と習性そのものだった。
「父の教育のおかげですよね」
今年1月、議員会館に訪ねると真顔で橋本は言った。
「馬に乗れるようになった時も、私が得意げに気を抜いていたら、見えない後ろで父が馬に鞭を入れたんです。突然馬が暴れて、私は落とされてしまいました」
それが父のやり方だった。
「そのうちに、父が鞭を入れようとしているのが馬の反応でわかるようになりました。乗っていると、馬が先に何かを察知した感覚が伝わってくる。動物的カンですよね。そのカンが競技でも日常生活でもすごく役に立っていると思います」
“頑強な女性”のイメージが強い橋本聖子。だが実は小学校3年から4年にかけて、腎臓病で長い入院生活を経験している。
「小学校いっぱいは療養生活、ほとんどスポーツと無縁です。でも、聖子という名前をもらって、8歳の時、札幌大会の聖火を見て“スケート選手になってオリンピックに出場する”と決めた、その一心で中学からスケートを始めたんです」
[1/2ページ]