コンピュータは生態系といかに共存できるか

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前篇からつづく

生態系のなかのコンピュータ

森田 前作『数学する身体』では大きくいえばチューリングが主役の前半と岡潔に焦点を当てた後半に分かれているのですが、『計算する生命』は僕のなかでは、前作の前半に対応していて、これからまた「後半」を書き進めていく必要があると思っています。今回の第四章はその意味で、後半に接続していく予告編のようなところもありつつ、今日の対話のなかで、そこへ進んでいくための大きなヒントをいただいたような気がしています。

鈴木 古代ギリシア数学の歴史から来て、一九世紀に一つの極致に達したあと、今度はターンして人工知能や人工生命が出てきた。人類史、生命史自体をもう一回この地点から振り返って、もう少し考えてみると何かが見えてくるかもしれません。いったい人類は何をやっていたんだろうか。もう一周回すと、さらに深掘りできるかもしれません。

 「ハイブリッドシステム」というと、計算機を発明する人類自体が生命ですよねという話に戻ってきます。それがもう一回生命の進化を加速させていく方向に行くのではないか。生命自身が自己複製するときに離散システムを取り込んできて、そのうち進化を複雑化させてきたということを、もう一回別のレイヤーで繰り返しているように僕には思えるのです。それがいったいどういった生命になるのかはまだわからないのですが。

森田 そこで気になるのはコンピュータと、それ以前から存在する生命との生態学的な関係です。生命は複製して自己保存していくだけでなく、生態系のなかで、他の個体と、「個体」という概念が無効になるくらい混ざり合っています。

 「混ざる」というのは、双方向的なプロセスで、ハチと花の関係のように、あるいは菌根菌と植物の関係のように、相互に呼応し合う関係の上に成り立つと思うんですが、計算の帰結に対して生命の側がどこまで応答していけるか。これからますます計算の中身がブラックボックス化して過程が見えなくなり、双方向的な関係を成り立たせていくのが難しくなっていったときに、生命とコンピュータの関係は、どういう風になっていくと思いますか。

鈴木 コンピュータは速いですからね。

森田 そうなんです。

鈴木 だいたい情報処理を加速する方向に使いますからね。遅い方向にコンピュータを応用することはあんまりないですね。

森田 速すぎるコンピュータと、セックスするわけでも食べたり食べられたりするわけでもなく、どうしたらもっと交われるのか。ただ道具として使うということではなく、混ざるという観点から考えたときに、僕たちはコンピュータとどういう付き合い方ができるのでしょうか。

鈴木 多細胞生物になったという事象が、生命の進化の歴史において大きな事件ですよね。多細胞生物は、器官というものを生み出すことができるようになった。生体全体の中で単一の機能を担うものが生まれると、役割分担ができ、特化した機能を一個一個の細胞が持つようになりました。

 ニューロンは情報の伝達や処理に特化していきます。腎臓の細胞だったら毒素をフィルタリングするという点に特化する。それぞれの細胞が別々の役割を果たすことができるようになる。

 機能がそうやって分化するところが、多細胞生物の大きな特徴ですが、これを実現するためには、一度はコード化のような作業を通すのが必須のように思えます。

 つまり、複雑さを爆発させるためには空間構造だけでは駄目で、一個上のレベルに上がるために、ある種すごく単純なシステムに一回落としてしまって、それによって複雑なシステムが、メタレベルで湧いてくるような過程を経るんです。一度「離散性」を通すことで複雑さのレベルが上がっていくイメージですね。

 ただし、この離散化は擬似的なものです。本当の離散性ではなく周囲からのノイズが含まれていて、これが進化の可能性を広げていく。そういう生命の進化の歴史の中に、人工言語としての計算というパラダイムが一九世紀に生まれてきたことは、生命の進化にとってどういう意味を持つのか。

止めようと思っても止められない

鈴木 「混ざる」ということで言えば、究極的には、現代の計算のパラダイムを取り込んだ限りなく小さいナノロボットの類が出てくるでしょうね。それがどこから要請されるかというと、二つの方向性が考えられると思います。一つは、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI、侵襲型の直接であれ非侵襲型の間接であれ、機械と脳の内部をつなぎ、調べたり治療したりする技術のこと)です。BMIはいま、非侵襲型から侵襲型の時代に入ってきていますが、表面にどんな電極を刺しても無理があります。

 そうすると、最終的に行き着くのは、ナノロボットの類を脳に入れて、一個一個のニューロンに付着させるというやり方でしょう。それをやらないと、深い構造まで情報が取れない。だから、研究者はそれを目指すに決まっています。

 メディアというのは身体と環境の表面に現われるインターフェースですから、そのふたつをどういうふうに近づけるかということがユーザーインターフェースの観点から問題になってきます。究極的にいえば、薬のように、ナノロボットを飲むみたいな話になるんじゃないでしょうか。これがニューロンに付着して、ニューラルネットワークとは別のコネクションを実現していく。そういうことが近い将来必ず行われるだろうと思います。

 もう一つの方向性は、医療ですね。医療と、BMIの延長線上としてのナノロボットという二つの方向性で、これから数十年間のうちに計算パラダイムが、おそらく生体システムの中に取り込まれていきます。それは、人間かもしれないし、人間ではない動物や植物なども含んでいく可能性もある。人間は、認知能力を拡張したいという欲望と同時に、生体システムだってコントロールしたいと考えるはずです。

 それを生命の進化としてどういうふうに解釈するかは、ここ数十年というタイミングで絶対に問われるところです。森田さんの好みではないかもしれませんが、必ず出てくると思います。

森田 健さんのおっしゃる、インターフェースを消し去っていく方向には不安を覚えます。たとえ、生命が計算に類似したふるまいをしている面があるにせよ、それはあくまでいま見えている範囲のことであって、現時点で見えているだけの理解に基づいて、どこまで生体の作動に介入していいのか。

 医療の分野でそういう方向に進んでいくことは容易に想像できますが、そもそも僕たちは生のことも死のこともほとんど理解できていません。技術によってこれからいろいろな方法で寿命が延びていくにしても、死ぬことの意味や、よりよく死ぬことについての探究は深まっていない。このままではあまりにバランスが悪いのではないでしょうか。

 それから、いまおっしゃったように、神経細胞でやっている計算だけではできない計算を実現していくために、ナノロボットを脳に埋め込むという話ですが、そうした流れが自然の多様な計算をむしろ画一化していくことにならないかという点が心配です。

 最近の研究によると、一般的な家庭のなかでも二〇万種くらい生き物がいることがわかってきているそうです(ロブ・ダン『家は生態系』白揚社)。それこそPCR法とかを使うことで、給湯器や冷蔵庫、オーブンの中にもたくさんの細菌や古細菌が棲んでいるとわかってきた。そういう生物の多様性そのものが、人間の健康にも少なからぬ影響を与えていて、ある意味では、とっくの昔から神経系の外側で行われている膨大な計算が、生命を支えてきたわけです。すでに土の中でやっている計算とか、空気の中、冷蔵庫の中の古細菌がやってくれている計算みたいなものに気付いて、これに耳を傾け、長大な歴史を持つ自然の営みを受け止めることの方にもっと知恵を絞っていく必要があるのではないでしょうか。

 コンピュータが物理的な自然と人間の心を媒介する装置としてこれからますます環境のなかに遍在していくというのはわかるのですが、自然現象をつなぐ媒介者としてコンピュータの万能性をどこまで信じていいのか疑問です。

 そもそもコンピュータを動かすために、めちゃくちゃエネルギーが必要なので、地球という生命圏が順調に作動していることがコンピュータが動くための前提ですよね。その意味で、コンピュータで進化を加速させることを考える前に、コンピュータが既存の生態系といかに共存できるかということを考えるのが先ではないでしょうか。

鈴木 そういう方向で技術的にエネルギーを調達しながら、コンピュータが進化していく世界が来るんじゃないのかというのが、人工知能の文脈で「シンギュラリティ」の概念を提唱したレイ・カーツワイルの議論ですよね。ベストセラーになった彼の著書『シンギュラリティは近い』で書かれていることのうち最もSF的な箇所は、機械が計算資源とかエネルギーの調達自体を自律的に行っていく方向になっていくんじゃないか、というところです。できるかどうかはわかりませんが。

森田 できるかどうかわかりませんし、できると言わない限りその方向へのストーリーはナンセンスになってしまいますよね。

鈴木 そうそう。最終的には計算資源の調達や、自己複製が不可避になってくる。壊れても自分で複製できないといけない。そういうのができると、結果として人類の知能を超えられるのではないかというのが、シンギュラリティの議論です。

 あの本の面白いのは、ハードウェア側から構想する力があるところです。エネルギーを自分で調達していくロボットのような存在が、これから大きな研究テーマになっていくと思います。

 ナノロボットとかはまさに、そういう世界に向かっていくでしょうね。だって、そもそも外から電気を供給できない。もちろん、電磁誘導とかを使ってできないこともないかもしれませんが、おそらくは生体内で化学的にエネルギーを調達していくようになっていくと思います。その意味ではウイルス的ですね。一回放流したら、もう誰にもコントロールできない。

森田 止めようと思っても止められないという感覚は、いろいろなところで広がっていますよね。コンピュータに対してだけではなく。

鈴木 資本主義もそうですからね。

森田 世界の作動に対しての自分の無力さの感覚というのでしょうか。気候変動も、原理的には止めようと思えば止められるはずなのに止まらない。何したってどうせ止まんないよねという諦めの感覚が広まっている気がします。何かできるはず、という感覚を持っていた時代もあったのかもしれないけれど、そっちの方がむしろ幻想だったのかもしれません。

鈴木 そっちの方が幻想なんでしょうね。なにしろ、自然が人間よりも圧倒的に強かったときは、人間は食べられる存在だったわけです。食うか食われるかで「食われる」方が可能性が高かった時代は、気候も含めて、自然の動きを止められるという感覚はかなり薄かったでしょうね。

森田 でも、自然災害が止められないということと、脳にロボットを埋め込むことが止められないというのは同じではないですよね。

 食べられるということに関して言えばおっしゃる通り、どの動物も基本的には、寿命まで生きることはあまりなくて、食われるか食えなくなるかで死ぬ。ただ、食われることは敗北ではなく、食う、食われるの関係を通して、生態系の循環が実現しています。

 人間はこの循環から離脱して、食われることも、死ぬこともない生を目指し始めている。自己の生命を支えるリソースはすべて他から与えられているにもかかわらず、死を通してみずからの存在を生態系に返還していくことに全力で抗おうとしている。生存が無上の価値とされる世界で、生体を制御しようとして体内にコンピュータを埋め込んでいくことになっていくとして、そのすべてをただ「止められない」と言っているだけでいいのでしょうか。死をひたすら避けるだけになっていくことに僕は強い違和感を覚えます。

鈴木 その問題はおおもとまで遡れば人権概念に辿り着くはずです。個のいのちと生命システムは違うものです。個々のいのちの価値を最大化させようというのが人権概念なので、森田さんの言う方向を考えようとするなら、人権概念を超えないといけなくなってくる。

森田 それは重要なテーマですね。

鈴木 ただ、人権概念の中でも、「死にたくても死ねない」という別の問題もあると思うんです。結局、医療制度がある上に社会保障が強すぎて、日本では死にたくても死ぬことができない。

森田 近代の医療はとにかく死を回避しようとしますが、いかによく死ぬか、ということもかなり重要な問題ですよね。

鈴木 実は最近まで僕は母親の世話や看病をしていたんです。うちの母親は、死にたい、死にたいと言っていた。透析を二四年くらいやっていました。

 でも本当にわからないのは、死にたいとは何かということです。難しいんですよね。本人は「死にたい」と言うわけですが、揺れ動くこともあって、これをどう捉えるべきなのか。すごく悩みました。

森田 難しい問題ですね。

鈴木 意思の確認というときの意思とは何なのか。医療行為としては、意思確認が必要なんです。救急車で病院に運ばれると、意思確認の話になります。そもそも本人の、延命治療をしないでくださいという意思とは何なのか。母親と何度も話しながら悩み続けました。

森田 そうだったんですね。

鈴木 母親自身が「死にたい」って言って、それを知ってから一回、人工透析を止めて、一八日間透析をしなかったんです。一八日間透析をしないということは、本人が死ぬという意思を固めているということのはずです。だけど、一九日目の朝に病院に行ったら、お医者さんから、透析をするという意思表示がご本人からあったので、透析をしましたと言われた。このときは本当にもう、死ぬ直前だったんです。だからそんなことあるわけがないだろうと驚きました。病院の人がどうやって意思確認をしたのかという問題も出てきます。母はもうほとんど意識朦朧なわけですから。

 だけど、実際にそれで集中的に透析をして、回復をある程度したときに、結局、治療をまた継続することにしたんです。本人も苦しみの中で揺らぐんですよね。本人の意思というものが揺らいでいる中の最新のスナップショットが記録に残る。生きたいと言ったり死にたいと言ったり、こちらはその情報に右往左往せざるをえない。

 それを意思として書き留めていかないと、お医者さんとしてもどうしていいかわからなくなってしまう。だから常に意思確認を求められ続けている状況で、その揺らぎをずっと感じ続けていました。

森田 生きているからこその揺らぎですね。

鈴木 はい。

 揺らぎと、現代の医療制度がマッチしていないと痛切に感じざるをえませんでした。一人一人のお医者さんが間違っているという話ではなくて、制度として、揺れていること自体を取り込んで、デザインされていないということです。

 お医者さんからすると、病院として守らなきゃいけないのは、最後は結局、患者の家族から訴えられたときにどうするかということです。亡くなったときに患者の家族から、常に訴えられるリスクをお医者さんは抱えていて、それを防ぐために、二重、三重の備えがある。法律的には、尊厳死は日本では認められておらず、医療は生かすことを前提にしていますから。

森田 揺れ方にも何か普遍的な面があるんでしょうか。

鈴木 うちの母親の場合は、何だったのかな、一般的なフレームとしての受け入れみたいなものが出ては引っ込んでいく、それも含めてぐるぐる繰り返している感じでしたね。時間的に言うと、落ち着いて、そういうものが本当に受け入れられている感じがあったと思ったら、急に考え方が変わって、の繰り返しです。

 圧倒的に、やっぱりつらかったと思うんです。つらさと、おいしいものを食べたりとか、孫と遊んだりする喜びのなかで揺れていたという。ずっとつらいことしかなかったら一直線なんでしょうけど。

 去年の秋に、京都の森田さんの家に行ったとき、ちょうど母親が病院を抜け出して京都のホテルで暮らしていたんですよね。僕は一〇月からアメリカ大統領選挙の視察に行っていたんですが、一一月に帰国した頃には母親の体調がだんだん悪化したので、京都で一緒に過ごしたんです。

森田 あのときそうだったんですね。うちの長男と遊んでくれましたね。

鈴木 折り紙の飛行機を投げて遊んだね。

森田 これまでうちにきた誰よりも、少年のようでした(笑)。

 大統領選挙の視察は三週間くらい行っていたんでしたっけ。

鈴木 そうですね。やっぱり行ってよかったです。ステレオタイプな情報ばかりが伝わってくるけど、そうじゃないものをたくさん見られました。

森田 都市と地方とかいう単純な対比だけじゃなく、そこにもまたそれぞれ多様な部分があるという。

鈴木 そう。人口が二万人しかいない郡でも、街と田舎の両方があって、人口三〇〇〇人の街とかだと、小さな街の方がリベラルだったりするんですよね。フラクタル状になっているので、面白かったですね。

 アメリカの場合、ライフスタイルと価値観が直結している感じがしました。それこそ、銃規制は典型的なんですが、日本で報道されると、銃の規制をしないのは何でだという方向性ですよね。でもアメリカの田舎に行くと、ハンティングもするし、銃が文化に根づいている。そういうのは、簡単に変えられるものではないと思いましたね。行かないとわからないものがたくさん見られたと思います。

森田 目の前でスマートニュースを使っている人たちとも出会われたんですよね。

鈴木 いや、なんかびっくりしましたよ。使っているんだもん、実際に。

森田 感動しますね。

鈴木 そう。うおお、みたいな。

 予備選のときに、ラスベガスのトランプの集会に行ったら、トランプ大ファンのおじさんが、スマートニュースを隣で使っていた。フィラデルフィアで、News From All Sidesという保守とリベラルの記事を比較しながら閲覧することができる機能を高校の授業で使っている先生にも会いました。

森田 それは震えますね。

鈴木 一方で、アメリカの社会の分断はまったく解消する感じがないので、どうしたものかなとも、常に考えています。民主主義的なシステムを、どうやって未来に向けてつくっていくかというところは、誰かが取り組まなきゃいけないだろうと思っています。

森田 あらためて今日もすごく感じましたが、哲学的で普遍的な思考が、具体的で身体的な経験に根差しているのが、健さんの大きな魅力です。生命、進化、多様性、死、社会、民主主義……。いろいろな話題が出てきましたが、からだで感じて、それが沈殿して発酵しながら、射程の長い思考がゆっくりと紡がれていく。いまもビジネスのフィールドで全身で経験されていることが、いつかまた普遍的な哲学となって結晶していくのだろうと、すごく楽しみにしています。

鈴木 なかなか本を書く時間がないんだけどね。代わりに書いてほしいくらい(笑)。

森田 そんな多忙ななか、今日は時間をあけてもらって本当にありがとうございました。話をしていて、僕自身も書いてみたいこと、考えてみたいことがたくさん出てきました。僕は健さんの巨大な思考の引力にひきよせられながら、これまでいろいろなことを考えたり書いたりしてきました。最近はお互いに忙しくてゆっくり話せることも少なくなって、でもだからこそ、一時的な「距離」と「相互作用の弱さ」を大切にしながら、僕も僕なりに、自分の足で歩める領域を広げていきたいと思います。

 今回の本はその最初の一歩かもしれません。そういう意味でも、今日はすごく大きな力をもらいました。

鈴木 またときどきこうやって話しましょう。

森田 ありがとうございます! 健さんがビジネスや技術の力を借りて、社会にこれからどんな思想を書き込んでいくか、一人の「読者」として、これからますます楽しみにしています。

(了) 

(「新潮」2022年1月号より転載)

鈴木健(すずき・けん)
SmartNews創業者・CEO。1975年、長野県生まれ。98年慶應義塾大学理工学部物理学科卒業。2009年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。著書に『なめらかな社会とその敵』など。

森田真生(もりた・まさお)
1985(昭和60)年東京都生れ。独立研究者。京都に拠点を構えて研究・執筆のかたわら、国内外で「数学の演奏会」「数学ブックトーク」などのライブ活動を行っている。2015(平成27)年、初の著書『数学する身体』で、小林秀雄賞を最年少で受賞。他の著書に『数学の贈り物』『計算する生命』、絵本『アリになった数学者』、編著に岡潔著『数学する人生』がある。

鈴木健
SmartNews創業者・CEO。1975年、長野県生まれ。98年慶應義塾大学理工学部物理学科卒業。2009年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。著書に『なめらかな社会とその敵』など。

森田真生
1985(昭和60)年東京都生れ。独立研究者。京都に拠点を構えて研究・執筆のかたわら、国内外で「数学の演奏会」「数学ブックトーク」などのライブ活動を行っている。2015(平成27)年、初の著書『数学する身体』で、小林秀雄賞を最年少で受賞。他の著書に『数学の贈り物』『計算する生命』、絵本『アリになった数学者』、編著に岡潔著『数学する人生』がある。

Foresight 2022年2月27日掲載

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