「恋人に気を遣わなくなる」ことは問題? ふかわりょうが思う、“履き慣れた靴”と日常
恋人に気を遣わなくなるのは良くないこと?
海外旅行。旅の間はその土地のいい場面しか感じませんが、気に入ったからといって住んでみると、旅行では感じなかった部分が見えてくるでしょう。時には嫌な側面もあるかもしれません。旅行して楽しいのは、まだ、その土地が旅人に気を遣っているから。嫌な側面を見せるようになったら、気を遣わなくなったということ。そこで気持ちが離れてしまうのか、それでも愛せるか。全てを受け入れたとき、旅人から住人になるのでしょう。
人間関係でもそう。誰もが最初は気を遣うもの。中には、あいつは気を遣わないやつだ、なんてこともありますが。
例えば恋人との接し方。最初のデートは高級店ばかりだったのに、徐々に庶民的なお店に移行する。いつの間にか気を遣わなくなってくる。デートらしいデートじゃなくなってくる。たまにはおしゃれして高級なお店に連れて行ってほしいと思う人もいれば、お蕎麦屋さんや牛丼屋さんなどの庶民的なお店に連れて行かれることを喜ぶ人もいます。初めてのデートの時と同じ緊張感のまま生活を共にするのはなかなか難しいもの。いつまでも気を遣う相手だったら、疲れて長続きしません。何も気を遣わずにいられる存在。お互いが、お互いの日常の風景になる。高級店に行かないのは、愛が冷めたわけではなく、愛し方が変わっただけ。
日常を大事にしたいなら不倫や浮気は……
しかし、これが通用しない場合もあります。浮気がバレた時にいくら「愛し方が変わった」と言っても、理解してくれません。確かに愛が冷めたわけではないとは思います。奥様のことを愛しているのに、別の女性に気持ちが向かってしまう。結果的に独身を貫いている私が言うのもなんですが、不倫や浮気をする人は、一番大切なものを見失っているのではないでしょうか。最初は、緊張してデートをしていた相手が次第に日常の中に入り、そして家族になる。二人が見つめあっていた瞳は、やがて、子供たちに向けられるようになり。愛し合っていないわけではもちろんなく、愛し方が変わっただけ。いつも当たり前に存在していることで、一番大切なものを見失ってしまう。履き慣れた靴の踵を潰して履くように、パートナーの心を潰してしまう。大切な人が悲しむのなら、日常を大事にしたいのなら、その愛し方は間違っています。日常の景色を失ったとき、何が大切か気づくのでしょう。
当たり前のふりをして存在する日常。我々が気を遣わずに過ごしている日常が、いかに偉大なものか。だからというわけではないですが、私は、頻度に振り回される人をあまり信用していません。何百年に1度より、毎日見ている景色の方が偉大だから。今、当たり前のふりをして存在しているもの。私の周りを囲んでくれているもの。日々を彩ってくれるもの。日常こそ奇跡。それは、商店街で一生足を運ばないような店や、シャッターを下ろしたままの店舗でさえも、私にとってはかけがえのない風景。存在していてほしい色。決して特別ではなく普通に存在しているものが、いかに、かけがえのないものであるか。しかし、いくら大切にしていても、日常から消えてしまうものもあります。
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