豊かな生態系をつくる「距離」と「弱さ」とは
二〇一五年に『数学する身体』という本を書いた。この本の主役の一人はアラン・チューリングという数学者である。特に前半では、チューリングが「計算可能性」の概念を打ち立てるまでの歴史を数学と身体の関係を軸に描いた(後半は岡潔の思想と生涯を通してその関係を別の角度から考察した)。それから五年半、前作の刊行以来取り組み続けてきた第二作『計算する生命』を春に出版することができた。この本では、チューリングの思考の前提となった、一九世紀における数学と論理学の関係と大きな転回、特にリーマンからフレーゲに至る数学史のうねりを描くことが一つの目標であった。一九世紀のドイツに僕の関心が集中していたのは、フレーゲが構築した「人工言語」の誕生に迫ることが、現代の「人工知能」の可能性や限界を考えていく上で不可欠だと考えていたからだ。
フレーゲの生涯の企図を軸として、その前後の「計算史」を描くためには、カントやデカルトの思考にまで遡っていく必要があった。ひたすら歴史のなかに潜り続ける五年間だったが、ついにこの本を書き上げたとき、真っ先にこれを『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)の著者であり、学問の師でもある哲学者・実業家の鈴木健さんに送った。
いまでこそ鈴木健さんは、企業評価額が二〇〇〇億円に達するスマートニュースの代表取締役として、実業界で大活躍をしているが、もともと複雑系の物理学を専門とする研究者であり、独自の視座と生命についての原理的な考察から、未来の社会を構想する哲学者でもある。ニュースアグリゲーションアプリ「スマートニュース」は、世界規模で急成長するビジネスとして着々と実績を挙げる一方で、情報技術を使って、現代社会の分断を「なめらか」に解消していこうとする試みとして、健さん(と僕はいつも呼んでいる)の哲学的思索と地続きにある。
僕自身、健さんが東大に所属する研究者だったときに出会い、彼が最初に立ち上げた会社の創業メンバーの一人として近くで多くのことを学ばせてもらった。哲学とビジネスが混交していくその活動は、身体性に根ざした思想の必然的な帰結であり、ますます多忙を極めていくなかでも、隙をみては健さんとアイディアを交換できる時間を僕はいつも楽しみにしているのだ。
出版後、今回の本について初めて話を聞くことができたのは、刊行から三ヶ月経ってからのことであった。アメリカ出張から一時帰国中のタイミングで、渋谷のスマートニュースのオフィスで二時間ほど言葉を交わした。
東京に向かう道中、僕はとてもドキドキしていた。そもそも「計算」という概念に対する関心は、健さんと出会い、その思想から影響を受けて育まれてきたものだ。その本人がこの本をどう受け止めてくれるのか。あまりに長く過去に埋没していた僕は、現在を走り抜ける健さんの言葉と思考の風を、浴びることを必要としていた。
七月も末の押し迫る頃、心配していた台風の進路は逸れた。僕は緊張と期待に胸をふくらませながら、久しぶりに東京へ向かった。(森田真生)
*
鈴木 『計算する生命』、読みましたよ、ようやく。この週末に読みました。
森田 ありがとうございます。
鈴木 面白かったです。特にリーマンとフレーゲのところはそんなに詳しくないので、すごく勉強になりました。
森田 それはよかったです。それを聞けてほっとしました。
「計算」という概念がいかに豊かな広がりを持つかは、僕がまだ文系の学生の頃に健さんと出会って、いろいろな対話を通して教えてもらったことです。この概念が、どんなプロセスを経て構築されてきたのか、今回の本ではその歴史をつかもうとしています。特に、決定的に重要なのがフレーゲの存在です。哲学や論理学に関心がある人であれば、フレーゲを知らない人はいないと思いますが、彼が現代の世界に与えた強烈なインパクトを考えると、もっと広い文脈のなかでフレーゲのことが語られてもいいはずです。どこまでそれが達成できているか分かりませんが、これが、本書を執筆した僕の一つの大きな動機でした。
鈴木 フレーゲは言語哲学の歴史の流れの一つの極致とも言えますよね。最も形式的な意味での「言語」の可能性を、究極まで追求したのがフレーゲで、言語哲学の歴史は、この本にも書かれているフレーゲからラッセルへの哲学の流れを頂点として、そこからいわば「Uターン」してきた感じではないでしょうか。そのフレーゲが、数学史と哲学史が交わる場所で、いったい何を考えていて何をしようとしていたのか、この本ではそこが丁寧にまとめられていて、すごく面白かったですね。
数学史は生命史を反復しているのか
鈴木 第三章までに描かれた数学史の賜物として、二〇世紀にチューリングの「計算可能性」の概念が確立するわけですが、こうして生成した「計算」と、その概念を作ってきた数学者や僕たち自身の「生命」がどういう関係にあるか、というのが第四章から終章にかけての主題ですね。この本ではここで、計算と生命をわりと切り離して考えているようですが、そもそも、生命そのものが、有限の記号を組み合わせて情報を記述するDNAやRNAなどの離散的な記号システムを持っていて、そういう記号を複製したり変異させたりしながら生命は進化してきた。つまり、生命はある面で最初からチューリングマシンに似た振る舞いをしている。チューリングが計算可能性の概念を確立していくまでの長い数学史がある一方で、実は、生命の起源の中にこれに似たシステムがすでにあったというところが面白い。生命自体がすでに最初から計算的なものを内包しているという意味でハイブリッドなシステムなんじゃないでしょうか。
森田 なるほど。とても面白い指摘です。
ただ、生命に内在する計算的な面が浮き彫りになってくるのは、フレーゲあるいはチューリング以後の時代を僕たちが生きているからですよね。つまり、生命に内在する計算的な側面がいまは特に浮かび上がっていますが、それは生命を観察する僕たちが持っている概念の枠に規定されている面があるはずです。
たとえば、フレーゲは命題をみたとき、主語と述語という古典的な形式でこれを分析せず、命題は関数なんだ、と洞察しました。これは、リーマンが切り開いた現代的な関数概念がなければ不可能なことです。フレーゲは当時としては最先端の関数概念に若いときから触れていて、その視点から見たら、命題まで関数に見えてしまった。関数概念が更新され、その新たな概念のもとで命題を見たとき、命題の関数としての側面が鮮烈に浮かび上がってきたということです。
手元にある概念に照らして、目の前の対象がこれまでとは別の相貌を見せるということは、科学の歴史でくり返されてきたことで、これはおそらく終わりのないプロセスですよね。実際、リーマン以後、関数の概念はさらに豊かな広がりを持つようになって、ここから言語や論理について、また新しい理解が生成していきます。
もともと、チューリングの探究は、計算不可能なものの広大な海のなかで、計算可能と呼べるような島の輪郭をどうやって規定できるかを問うものでした。この島は、最初からどこかにあったのではなく、それこそデカルトやガウスやリーマン、フレーゲなど、すごく特殊な「近代西欧数学」の文脈のなかで構築されてきた。その概念のもとで生命を見ると、生命そのものが計算と呼ぶべきプロセスを内包しているように見えてきた。僕はそのように見ています。
鈴木 なぜ生命が生まれたときに、コンピュータを想起させるものがそこに埋め込まれていたのかは、興味深いと思いませんか。そうでなくてもよかったはずですよね。
森田 それはそうですね。
鈴木 そもそも離散的なシステムなんかつくらずに、生命があってもよかったはずなのに、多くの生命は、離散的なシステムを組み込んでつくられている。その流れで進化が爆発しているというのは面白い現象ですよね。
システムが複雑化していなければ、たぶん、そんなに難しいことはしなくていいはずなんですが、システムが複雑化した上で、しかも、そのシステムを自己複製するためには、いったん離散的な記号系を媒介することがどうしても必要なのかもしれません。
自分自身を複製するということは、複製している最中の自分も複製しないといけないので、複製する対象そのものが変化していってしまうという厄介な問題が生じます。この「自己複製のパラドクス」を数理的な観点から徹底的に考察したのが数学者フォン・ノイマンでした。複雑なシステムを、いったん静的なコードに落として、そのコードの方を複製してからもう一回もとのシステムを再構成するというのが、ノイマンがパラドクスを回避するためにたどりついたアイディアでした。ノイマンがこの着想を自己複製オートマトンの理論として発表したのは一九四八年と一九四九年のレクチャーでした。ワトソン・クリックのDNA二重らせん構造の発見論文がNatureに発表されたのが一九五三年ですから、それよりも前なんですよね。
単純なシステムだったら、自己複製はパラドクスにならないと思うんですよ。でも、システムが複雑になればなるほど、自己複製をどうやってやるかという問題が出てくる。このとき、離散的な記号へのコード化が極めて重要な役割を果たす。
森田 なるほど。
鈴木 そういうふうに生まれてきた生命自身が、逆に、記号化、コード化というものの極致へと邁進していく。この流れが極点に達したのが、フレーゲからチューリングに至る時代だったのではないでしょうか。
森田 数学史がある意味で生命がやってきたことを別のレベルで反復している、と。
鈴木 言語や記号に似たものが、生命の中に起源として織り込まれているのだけれども、一九四〇年前後の人類の営為が、さらに計算機というものを生み出していって、その上で計算機が人間や生命体とハイブリッドシステムになったことによって、次の進化が始まろうとしている。生命史から捉えると、そういう解釈になると思います。
反復の意思が進化を駆動する
森田 人間がある日突然計算を始めたのではなく、自然のなかにあらかじめ計算が埋め込まれている、というのは健さんが昔から語られているヴィジョンですね。僕の今回の本ではそのような計算観からすると、いわば一歩「後退」しています。まずは、人間が計算する、という行為の起源から考えようとしたので、生命に内在する計算を考えるというよりは、生命である人間があえて規則に服従しながら計算をする、という視点が軸になっています。
一方で、数学史が生命史を反復しているという点に関していえば、僕は特に、数学の概念や思考法がどう「進化」してきたかということにずっと関心を抱いてきました。これまでに何度か、数学がとてつもなく変容した時代があって、そういう変化がどうして起きたのか。これを調べていくと、数学を変えていこうという意思ももちろんですが、むしろ、数学の本質と思われる部分をきちんと取り出し、これを維持していこうとする行為が、結果として思わぬ形でそれまでとは別の数学を生み出していく、ということが何度もくり返されてきたと思うんです。
たとえばデカルトにとっては「確実さ」が数学の最も重要な性質でした。それを維持しながら数学の扱える領域を広げていくなかで、新しい数学を生み出していった。
それまでは、古代ギリシアの数学を継承していることが、数学のアイデンティティーでした。だからこそ、幾何学も作図の縛りからなかなか自由になれなかった。ところがデカルトは、数学が「確実」であるためには、作図という方法に縛られなくてもいいと気づいた。数式の計算だって、あらかじめ決められた規則通りに操作しているのであれば、古代ギリシアの作図に基づく推論と同じくらい確実で厳密じゃないか、と。
彼は、数学という学問に固有の性質を特定して、それを維持しようとした結果、数学を生まれ変わらせてしまったのです。リーマンの場合、人間の思考が依って立つ最も基本的な仮説それ自体を再構築できるところに数学の本質を見て、結果的にさらに大胆に幾何学をそれまでの伝統から解放することになりました。
デカルトは当時の数学者のなかでは異端で、本人もその異端性を自覚していたからこそ身を隠すようにして研究を続けていたのですが、数学に固有の価値をとことん守り抜こうとしたという点では、むしろ保守的だったと言えるかもしれません。
数学とはどういうものかという原点に回帰し、それを徹底的に反復しようとした結果、当時の人が考える数学とはかなり違うものを作り出した。もともとあるものを忠実に反復しようとする意思が、結果として進化を駆動するという意味では、遺伝子の複製と変異が進化を駆動してきた生命史に通じるところもあるかもしれません。
同時に、僕は今回の本を描きながら、デカルトやリーマンなどの天才的な個人だけに焦点を当てて歴史を描こうとすることの限界も痛切に感じていました。彼らの思考は、もう少し大きな歴史的・文化的な文脈のなかで育まれているもので、そういう環境との雑音にみちた交流をもっと精緻に描きたいという思いをいまも抱き続けています。
「距離」と相互作用の「弱さ」が生み出す多様性
森田 離散的な記号言語のようなものへのコード化が、生命の複製にとって肝心だったということは、人間の思考の歴史と照らし合わせたときハッとさせられる指摘でした。さらに伺ってみたいのですが、生命の多様性や進化については、こうした文脈でどんなことが言えると思いますか?
鈴木 進化や多様性は、空間構造を置くと比較的簡単に発生するんですが、空間を置かないと難しいと言えると思います。「空間を置く」とはどういうことかというと、相互作用が強くなりすぎないような「距離」を設定するということですね。
森田 なるほど。
鈴木 個体間の相互作用が強すぎると、進化が起きにくくなります。逆に、空間があって個体がばらばらになっていると、進化とか多様性が生まれやすい状況になる。
距離があることがすごく大事なんです。つまり、「相互作用の弱さ」が重要で、相互作用が完全になくなると、それぞれ別の孤立した宇宙になってしまう。強い部分と弱い部分があって、違う時間構造で変化しているものが、時々行き来するような状況というのは、あくまで一般論とはいえ、進化が起きやすい状況と言えます。
森田 生態系の豊かさとも通じますね。
鈴木 そうですね。生態系全体をひとつのシステムとして見たときも、結局、相互作用が強すぎると似たような種しか現れない。豊かな生態系をつくるためには、時間、空間構造を置くことが必要になる。空間構造がない環境で進化させようとしても、なかなか進化が起きないという研究はいろいろあります。
森田 パンデミックの影響で僕たちは互いに距離をとることを余儀なくされていますが、距離と相互作用の弱さが進化を駆動すると言われると、いまの状況を少しだけ前向きにとらえられるような気がします。
鈴木 今回の本(『計算する生命』)に関して僕が思ったのは、生命と計算を対立概念として捉えて、生命の機械化みたいな考え方で見る方向ももちろんありますが、さっきも言ったように、生命そのものがすでに計算的なものを取り込んでいるわけですよね。ここで言う計算は、チューリングの「計算可能性」の計算じゃなくて、もっと緩い計算です。弱い計算というべきか。それを複雑系や人工生命を研究する東大の池上高志さんと「自然計算(natural computation)」と呼んでいます。チューリングマシン的な計算よりももっと広い計算があって、それが豊かな世界をつくっている、と。
そういう見方の起源は、情報や通信、制御の観点から、生物学と工学など様々な学問を融合していったサイバネティクスという学際分野の誕生にまでさかのぼります。アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーが『サイバネティクス』を書いたのは一九四八年ですが、ウィーナーがこの本の序文でも書いている通り、フォン・ノイマンやアメリカの人類学者グレゴリー・ベイトソンなど、非常に多様な背景の研究者が集う学際的な会議が一九四〇年代初頭から開かれていました。ここに計算機科学の考えも次第に流れ込んでくるわけですが、当初はまだアナログコンピュータの時代だったので、「計算」として想定されていたのは、デジタルな情報処理を前提とするチューリングの計算概念よりも緩い計算でした。アナログコンピュータは電気回路を使って計算をするので、それと同じようなことが、脳の神経回路でも起きているはずだという考えも自然とこの頃に出てきました。コンピュータを使って脳を模倣するというよりも、計算がそもそも人間の脳に内在しているのではないかという見方ですね。生命と計算を対立させるよりも、生命に内在するものとして計算を見るという視点はこのあたりから生じたわけです。
僕が思ったのは、こうしたサイバネティクスの系譜をもっと今回の本でも書いてくれたらよかったんじゃないかなということです。ウィーナーは、一八歳のときに書いた博士論文のテーマはラッセルとホワイトヘッドの数理論理学で、一九歳のころにはラッセルやヒルベルトと直接交流がありました。また、形式ニューロンモデルを一九四三年に発表したマカロックはウィーナーの共同研究者で、ピッツはカルナップから一五歳のときに数理論理学を学んでいたそうです。そうすると、第四章から終章にかけてのところは、もう少し複雑に描けたんじゃないでしょうか。人工知能と人工生命へのブリッジのところが、サイバネティクスを経由せずにブルックスで接続するので、その接続の仕方に少々無理があったかもしれません。
森田 ありがとうございます。
おっしゃる通り、この数年間ほとんど一九世紀のドイツに浸かっていて、そこで掴んできたものに手応えを感じてもいるんですが、ここから現代の人工知能や人工生命の流れに接続していく後半のところでは、やや焦りが出たというか、接続が乱暴になってしまった点があることを反省しています。
特に、今回は「計算」の概念を、あくまでチューリングの計算可能性の意味での計算に限定して考えていて、チューリングにいたる前史を描くためにはこれでよかったと思うのですが、チューリング以後を考察していくなかで健さんがおっしゃる「弱い計算」についての議論をきちんと掘り下げていく必要があったかもしれません。次の作品への課題としてしっかり受け止めたいと思います。
(後篇へつづく)
(「新潮」2022年1月号より転載)
鈴木健(すずき・けん)
SmartNews創業者・CEO。1975年、長野県生まれ。98年慶應義塾大学理工学部物理学科卒業。2009年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。著書に『なめらかな社会とその敵』など。
森田真生(もりた・まさお)
1985(昭和60)年東京都生れ。独立研究者。京都に拠点を構えて研究・執筆のかたわら、国内外で「数学の演奏会」「数学ブックトーク」などのライブ活動を行っている。2015(平成27)年、初の著書『数学する身体』で、小林秀雄賞を最年少で受賞。他の著書に『数学の贈り物』『計算する生命』、絵本『アリになった数学者』、編著に岡潔著『数学する人生』がある。