「自分はよそ者」と思うと不便が気にならなくなる? 生活すべてに当事者意識を持つ大変さ(古市憲寿)

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 日本は衛生観念の高い国といわれる。しかし去年の終わり頃、東北新幹線に乗った時、立て続けにこんな経験をした。夕方の便では決まってトイレのせっけんが切れているのだ。嫌らしい話だが、グランクラス車両のトイレだから、それほど利用者は多くなかったはずだ。

 偶然かと思って検索してみると、そもそもJR東日本はせっけんに関して意識の低い会社らしい。たとえば、ポスターで手洗いを啓発しながらも、トイレにせっけんを置いていない駅も多いようだ。何かの理由があるのだろうが、この御時世にメンタルの強い会社だと思った。「コロナには負けない」という強い意志を感じる。

 せっけんくらい補充してほしいと思うが、いちいち文句をつけていると疲れてしまう。最近は、サービスに不満がある時は、「この国や地域ではそういう流儀なんだな」と思うようにしている。

 国や地域ごとにトイレとの付き合い方がある。ヨーロッパでは、公共トイレの数が極端に少ない。カフェのトイレも利用者だけが使えるように、鍵がついていたりする。だから博物館でもデパートでも、トイレを見つけたら「とりあえず行っておく」というのが一つの知恵だ。

 本当はもっとトイレがあった方が便利なのだろうが、日本からの旅行者がヨーロッパのトイレ事情に口を出しても仕方がない。

 数年前、杭州から上海へ向かう高速鉄道に乗った時のことだ。中国の友人から「乗車したらすぐにトイレに行って下さい」と言われた。上海に着く頃にはトイレが汚くなっているかもしれないというのだ。

 なるほど、これも生活の知恵かと思った。高速鉄道のような多様な階層の人が集まる場所で「トイレを先に使う」というのは、自己防衛の手段なのだろう。

 外国だと思えば、許せることが増える。それは自分がしょせんはよそ者であり、一生その場所で暮らしはしないことを知っているから。

 極論を言えば、自国の社会も似たようなものである。生涯、海外に移住せずに暮らしても寿命は100年くらい。その国や地域の歴史と比べれば、人間の一生はとても短い。この世界にとって、我々はよそ者のような存在だ。

 ましてや東北新幹線なんて、年に何度かしか乗らない。しかも大方のサービスには満足しているのだから、ただのせっけん切れは大きな問題ではない。

 もちろん、当事者意識を持った人々のコミットメントによって、社会はどんどんよくなる、という考え方もあり得る。新聞に投書をしたり、企業のお客様センターに抗議をする人には、そのような正義感があるのだろう。僕も、危険運転をするタクシーに乗り合わせた時などは、きちんと関連機関に情報を伝える。

 しかし生活に関わる全てに当事者意識を持っていたら、あまりにも疲れてしまう。「この国ではそうなんだな」とよそ者として暮らしていた方が、リラックスして日々を送れる。と言いながら、こんなエッセイを雑誌に載せているのだけど。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2022年2月24日号掲載

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