「袴田を見た」という同僚の証言が徐々に消された理由【袴田事件と世界一の姉】

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従業員たちの証言が変わる

 1966年7月9日付の捜査報告書では佐藤省吾の「袴田があとからついてきた」という部分も消えている。さらに、後の公判での証人尋問で、彼らは「消火現場で袴田巖さんを見ていない」と証言してゆく。

 1968年9月11日の静岡地裁(石見勝四裁判長)の死刑判決は、巖さんのアリバイについて以下のように説明する。

〈本件当日の六月三〇日には、火災発見当時まで、従業員岩崎和一は工場階下の宿直室で宿直していたこと、寮の二階の八畳の間には、佐藤省吾と松浦光男が寝ていたこと、一方寮二階の一〇畳間には当夜被告人と佐藤文雄が寝ることになっていたが、当夜佐藤文雄は橋本藤作(筆者注・橋本藤雄専務の父)方に留守番として泊るために午後八時半頃、右部屋を出たこと、従業員井上利喜雄が所用で工場に来て午後一〇時半頃、右被告人の部屋に立寄った時には、被告人が一人で右部屋にいたこと等が認められる。また本件の全証拠によっても、右井上が被告人の部屋を出てのち本件火災の鎮火に近い頃被告人が火災現場に姿を見せるまでの間に被告人の姿を何処かで見たという者も認められない。〉

 子供の発熱で電話を借りに来ていた井上は、1967年2月の27回公判でそのやり取りを語らないなど、当初の警察への供述から後退している。というより、彼らが証人尋問に立った公判で裁判官は消火活動中の巖さんの目撃談をほとんど訊ねていない。採用したこれらの証言はアリバイのことではなく、事件の翌年に出てきた「5点の衣類」ことなどだ。

 火災当時のアリバイに関して、公判では岩崎が第26回公判で物干し竿の上で巖さんを「見た」と話している。しかし、裁判官はそうした証言を全く無視し、「アリバイはない」と片づけてしまう。有罪と決めてしまった裁判官が矛盾する証拠にあえて目をつぶったのか。

 連載の9回目で紹介した元毎日放送(MBS)記者の里見繁氏は、『消えたアリバイ~日野町事件 映像03』という優れたドキュメント番組を製作した。1984年に滋賀県で発生した日野町事件は再審開始が決定したが、検察が抗告し現在、三者協議中だ。強盗殺人で逮捕された阪原弘さん(無期懲役刑で獄死)のアリバイを証明する目撃証言が、不思議なくらいに翻されてアリバイが消えてしまう。里見氏は「警察・検察は卑劣な手で証言者に証言を翻させていったのです」と話す。一般論だが、検察は法廷証人となる人に「嘘を言うと偽証罪に問われますよ」などと脅すことがあり、記憶が曖昧だったりすると怖くなって「見た」と言えなくなるのだ。

 ひで子さんは「従業員の人の供述調書なんかもあとでいろいろと読みました。不思議なことに、当初はあったはずの巖のアリバイがだんだんと、ないということになっていくんですね。そういう捜査だったんですよ」と話している。「捜査」ではなく「操作」であろう。

「尾行されている」と公言

 さて、事件後、すぐに幼い子に会うために実家に来た巖さんに変わった様子もなく、ひで子さんや母ともさんら家族は安心していた。一方で巖さんは、警察に尾行されていることを周囲に堂々と話していた。『袴田事件』(1993年・悠思社)の著者・山本徹美氏の取材に対し、元従業員男性は「朝、顔を合わせて談笑しているとき、袴田が『夕べは、おらを尾行してきやがってな、警察が』というんですよ。『逆に尾行してやったら、アワくって逃げただ』と、笑っていた。そんな話をするのは袴田ただひとりっきりだった」と話している。真犯人なら無頓着にそんなことを周囲に言うはずはない。ひで子さんら家族は「従業員はみんな一応に尾行されているんだろう」と思っていたが違っていた。尾行は巖さんに絞られていた。

 開示された従業員の供述調書から弁護団は「この時点(6月30日の佐藤省吾への聴取)で捜査官が早くもアリバイに言及しているということは、事件発生のごく初期の段階から袴田巖に対する嫌疑を抱いていたことを示している」としている。捜査陣は事件当日から事実上、巖さん一本に絞ってしまっていた。(敬称略)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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