「袴田を見た」という同僚の証言が徐々に消された理由【袴田事件と世界一の姉】
開示された目撃談
同じく従業員の佐藤省吾は、6月30日付けの捜査報告書で「サイレンで目を覚まし、……身支度していると。松浦も起きて支度し、外へ飛び出した。すると袴田も一緒くらいに起きて自分らの後からついてきた」と話している。まさに一家4人の殺人と火事が起きた当日の警察への証言。これは、「消防のサイレンで目を覚ました。そのうち松浦、省吾(佐藤)が、がたがた階段の音をさせて出ていき、私も起きて二人の後から」と完全に一致する。
8月3日付の調書では、寮を覗いた井上利喜雄は「(佐藤省吾の部屋の)次の部屋にいる袴田が『どうした』と言葉をかけたので、ちびが熱を出したので電話を借りに来たことを話すと『それは悪いな、大事にな』というのでそこを出てきた」としている。ちなみに、当時はクーラーが今ほど普及しておらず、寮にもなかった。暑かったあの夜、従業員らは戸を開けっ放しで寝たりするから、部屋の向かいに誰かが来たらすぐにわかった。一審で唯一、採用された吉村英三検事の調書(1966年9月9日)は「袴田巖が犯行の3、4日前から、専務宅から金を盗むことを考え、6月29日夜午後11時ごろから寝床に入ってそのことを色々考えているうちに、今夜やってやろうという気になった」としている。当初の警察調書の流れから大きく逸脱している。
消火活動へ向かう巖さん
佐藤文雄(袴田巖と同部屋)は寮におらず、用心棒役として橋本専務の母の家で寝ていた。7月15日付の調書では、火事に気付き寮の部屋に戻ると「電気がついていて掛け布団が半分くらいめくれて二つに折れていた」と証言している。つまり巖さんは既に消火作業に出ていたということだ。佐藤省吾と松浦は「(消火に)出るときには袴田巖の部屋は暗かった」と話しており、電気は消火に出て行こうとした巖さんがつけたとしか考えられない。
7月9日付け調書で先の従業員・佐藤省吾は、物干し竿の杭によじ登ろうとしている巖さんを目撃したことを証言している。7月11日付け調書でも、屋根の上にいる巖さんを見ている。岩崎にも同じ場所や土蔵の屋根で「袴田を見た」という調書がある。
さらに午前2時20分頃、従業員の山口元之が国鉄の線路でパジャマ姿の巖さんが工場の方向へ歩いていることを目撃した調書もある。事務所でバンソコウを巻いて現場に戻るところだったと思われる。
これらの証言にもかかわらず警察は、巖さんの就寝後のアリバイについて「裏付けが取れない」としているが、深夜、誰も起きていなければ、巖さんがどこで何をしていたかなどわかるはずもない。そして「袴田を見た」証言は徐々に消えてゆくのだ。
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