「袴田を見た」という同僚の証言が徐々に消された理由【袴田事件と世界一の姉】
1966(昭和41)年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社「こがね味噌」の専務一家4人が殺害される「袴田事件」が起こった。強盗殺人罪で死刑が確定し、囚われの身だった袴田巖さん(85)が静岡地裁の再審開始決定とともに自由の身になったのは、2014年3月のことだった。実に47年が経ち、30歳で逮捕された男は、この時78歳になっていた。再審開始を目指す巖さんと姉・ひで子さん(89)を追った連載の第10回。(粟野仁雄/ジャーナリスト)
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【写真と表】事件直後の「こがね味噌」の様子や、当時の裁判資料など
新型コロナのオミクロン株の影響はやはり避けられない。毎月第3土曜日に浜松市内で開催される「袴田事件がわかる会」(袴田さん支援クラブ主催)も2月は中止。当面、医療関係者以外は袴田さん宅に入らないことに決め、巖さんの日課である浜松市内の「パトロール」も、猪野待子隊長以下「見守り隊」の人たちは家の外で巖さんの出発を待つことになった。無理もない、袴田姉弟は高齢で、とりわけ巖さんには糖尿病の基礎疾患がある。
「百(100歳)まででも裁判を戦います」と言うひで子さんは2月8日に89歳になった。巖さんが86歳になる3月10日には、支援者らが袴田さんのマンションで2人の誕生日を祝う予定だったが、これも感染状況次第とか。「袴田邸出入り禁止措置」について、猪野さんは「とにかく巖さんやひで子さんがコロナに感染しては一大事。ひで子さんが誰かに『入ってもいいよ』と言っても、私が玄関の前に立ちはだかって入れさせませんから」と気迫十分である。
「架空世界の住人」
そんな猪野さんは『袴田巖さんの現状についての報告書』を綴り、弁護団(西嶋勝彦団長)を通して2月16日付で、三者協議を進める東京高裁に提出した。弁護団の小川秀世事務局長は、「裁判長にはぜひ読んでもらいたい」と猪野さんの報告書を評価する。
報告書で猪野さんは、巖さんについて〈釈放されてからもずっとバイ菌と対峙しています。バイ菌とは悪事を働く者のようで、巖さんの命も狙っているというのです〉、〈正義を希求する不屈の精神と自己防衛本能が働いた結果、架空の世界を想定しその住人となることによって巖さんは生き延びてきました〉などと記している。
報告書を書いた動機を猪野さんはこう語る。
「再審開始決定をしてくださった静岡地裁の村山(浩昭)裁判長は、拘置所の巖さんに会いに来ています。三者協議では高裁の裁判官は誰も巖さんに会わず、死刑囚のままにされている肝心の本人がいないところでだけの審理はおかしいと感じていた。本来、裁判官が巖さんに会いに来てほしいのですが、それができないならせめて報告書で巖さんの現実を知ってほしい。法律論とは違う次元ですが、あれだけ残酷なことになってしまった巖さんの心情的な面などからも無実の証明の一助になれば」
ひで子さんは「とてもよく書けていると思います。今は裁判の動きがずっと止まってしまっています。だからそういうこと(報告書の提出)でもなんでもやってくださることは本当にありがたいですよ」と感謝する。
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