天皇誕生日 62年前の味わい深い新聞・雑誌の「ご誕生報道」と「9枚の秘蔵写真」
「浩宮徳仁」の名付け親
《去年の十月、美智子さまはおめでたも次第に近づくので、一切の公式行事に出られなくなった。その直後のことである。天皇陛下は宇佐美長官に、名前のことを考えておくよう、命令された。》
《白羽の矢を宇野哲人東大名誉教授と諸橋轍次東京教育大名誉教授のお二人にたてた。宇野さんは支那哲学の権威、諸橋さんは大漢和辞典の著者で漢字の“神様”。両博士は家人にも気づかれないように、中国の古典のなかからいい名前捜しに没頭した。そして男女とも数種類ずつ(宮内庁の表現、両博士によると男は三種類)の候補を宇佐美長官の手もとに提出した。二月中旬のことだった。》
《宇佐美長官から、陛下のおてもとに差し出された。陛下はどれにしようかと、皇后さま、皇太子さまにも相談された。そして「浩宮徳仁」を採用された。》
“ミッチーブーム”に象徴されるように、国民の多くは「戦後となって生まれ変わった皇室にふさわしい子育て」を求めた。
それに注目したのが、週刊テレビ時代(5月1日号)の「はたして因習は破れるか? 特集 浩宮さまの育児プラン」だ。
昭和天皇の“育児改革”
記事では、伝統的な天皇家の子育ては《皇子、皇女はすべて誕生後まもなく、臣下の家に里子に出されるならわしだった》とし、明治天皇(1867~1912)の興味深いエピソードを紹介している。
《明治天皇はご誕生から五歳のときまで、中山忠能大納言家に預けられて成長された。》
《幕末、公卿の生活が一番苦しい時代であったから収入わずかに二百石ほど。しかも子供が九人もあって、楽な暮らしではなかった。》
《竹馬に乗ったり、はだしで庭をとびまわったりしてお育ちになったが、築土(ついじ)の破れから、遊びに夢中になって、つい、表の通りに飛び出してしまわれることもたびたびあったという。》
昭和天皇も同じように里子に出されたのだが、皇太子さま(=上皇さま)が誕生すると、先例を破って自分のお手元で育てようと考えられたという。
更に香淳皇后(1903~2000)も、初めて自ら授乳するという“改革”を行った。昼は必ず自ら母乳を与え、これまで授乳を担当してきた「乳人(ちひと)」は夜間だけと決められたのだ。
だが、こうした“新機軸”は次第に「柔弱なお育ちになる」と批判が集まり、遂に昭和天皇は“改革”を断念する。
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