磯崎新の初期作「アートプラザ」を生んだのはパトロンの存在? 地元有力者の助力で才能が開花
アートプラザ(旧大分県立大分図書館)(大分県大分市)
地元の人にとっては見慣れた存在。でも歴史を知ると、かなり立派な名建築であることがよくわかる「身近にある意外な名建築」をご紹介する本連載。6回目の今回は、大分市で図書館として建てられた斬新な建物である。大建築家となった磯崎新氏のキャリアの出発点となった、極めて斬新なデザインの建物が造られたのには、地元の有力者たちの助力があったという。『日本の近代建築ベスト50』(小川 格・著)から引用してみよう。
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磯崎新(いそざきあらた)(1931年~)は大分市に生まれた。父操次は実業家であったが、同時に俳人(藻二)として大分県の俳句革新運動の指導者であった。操次の周りには、芸術文化を愛好する人々が集まっており、文化を支援する旦那衆を自任していた。操次は磯崎が大学2年生のときに亡くなってしまうが、岩田正をはじめとする仲間たちが、まだ学生だった磯崎を引き立て、次々に仕事を斡旋した。大分県医師会館、N邸、岩田学園、県立大分図書館など、磯崎の初期の作品はことごとく大分の旦那衆からの指名であった。これらの作品を通して、磯崎は自分の作風を確立し、数々の賞を受賞し、世界にアピールすることができた。
現在アートプラザと命名されているこの建築は当初は大分県立大分図書館として造られた。まだ予算のめどが立たないうちに設計を始めたため、後に拡張できるシステムを考案して、「プロセスプランニング論」という論文とともに発表された。
そのため、デザインは途中で切断された大きなボックス梁が空中に突き出し、この建築デザインの特徴となっている。
当時、磯崎は東大の丹下研究室に所属していた。丹下健三の思想と技術を徹底的に叩き込まれていたが、磯崎は、それを乗り越えようとしていた。医師会館も図書館も丹下を感じさせない。
さらに、世話になった旦那衆のお気に召すようなデザインでもない。旦那衆は磯崎の建築も理論も理解できなかったかもしれないが、だれも異論をさし挟むものはなく、喜んで磯崎の個性的な設計を受け入れた。大分の旦那衆は懐が深かった。
それから24年たった1990年、こんどは、図書館の面積が足りなくなり、近くに約5倍の面積をもった新たな図書館が計画された。これも磯崎が指名されて設計した。すると、いままでの図書館が不要となり取り壊しの計画が浮上した。
しかし、こんどは県内の建築家、市民が保存に立ち上がった。貴重な文化財として保存しようという機運が高まり、ついに元県立図書館は市が買い取り、市民の芸術活動の場として保存再生することになった。さらに磯崎から自身の建築の模型をはじめとする資料一切が提供されることになり、1、2階を市民ギャラリーに、3階を磯崎新建築展示室とすることになった(1998年)。
県立図書館は、32年にして、市のアートプラザとして蘇ったのである。インテリアの魅力は多少失われたが、外観はほぼ完全に保存された。
近代建築で、こんなに手厚いパトロンに恵まれた建築家は他にいない。なにしろ、県知事も市長もこの旦那衆の仲間内なので、磯崎は学生時代に帰郷のたびに市長に挨拶に行き、東京の近況を話した。たまたま集まっていた旦那衆の視野の中に天才的な若者が現れ、旦那衆がこの若い才能に賭けた。それが大きく開花したというわけだ。
磯崎は、後年、設計コンペや、くまもとアートポリスなど、若い建築家に設計の機会を与える仕事を進んで引き受けているが、それは、自身の恵まれた経験を少しでも次世代に引き継ぎたいという思いのために違いない。
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小川 格(おがわいたる)
1940(昭和15)年東京生まれ。法政大学工学部建築学科卒。新建築社で「新建築」の編集を経て、設計事務所に勤務。相模書房で建築書の出版に携わった後、建築専門の編集事務所「南風舎」を神保町に設立、2010年まで代表を務めた。2022年1月現在は顧問。『日本の近代建築ベスト50』が初めての著書。