あさま山荘事件50年 テレビ中継は合計視聴率90%! 元日テレアナウンサーが振り返る“極寒の現場”
突入地点で実況中継
そもそも10日間も久能アナが現場に立ち続けることは、当時でも異常な勤務状況だった。
何度も交代が話し合われたが、現場責任者が「初動から事件を取材している久能アナがいなくなると現場が困る」と主張、それが認められるということが繰り返されていた。
久能氏も疲労が蓄積していた。しかも現場は連日、気温が零度を下回るという苛酷な状況だった。おまけに北側には浅間山がそびえ、常に冷たい風が吹き付けた。体感温度は更に低かったに違いない。
地面はアイスバーンになっており、足が凍えた。大切なカイロは、テレビカメラを温めるために“没収”された。激しい銃撃で弁当も水も届かない。喉が渇くと雪を舐めた。そんな“極限状態”で、9時間の生中継で実況を続けた。
「望遠カメラなどの機材は、NHKが圧倒的に充実していました。中継画面の質では絶対に勝てないことは最初から分かっていました。そのため日本テレビは“声”で勝負しようと決めたのです。具体的には、他局より多い4元中継の陣容を整えました。突入場所の付近や、山荘を見上げる場所、見晴らしの良い尾根の稜線などに、4人のアナウンサーが配置されました。私は突入場所の付近を担当することになったのです」
大成功でも苦い思い
犯人側は報道陣にも発砲してきた。信越放送のカメラマンが重傷を負ったのは、久能氏の近くだった。頭上を銃弾が飛び、小枝が折れる音が聞こえた。
「会社から撤収命令が出ましたが、異を唱えて動きませんでした。自分が危険な場所に立っていることは分かっていました。ただ、恐怖より義務感が上回るというか、『今、目の前で起きていることを視聴者の皆さんにお伝えしなければならない』という想いは非常に強いものがありました」
そして警察は突入し、5人の犯人が逮捕され、中継は終わった。社員の誰もが久能氏の働きを労った。だが、久能氏は苦い思いだったという。
「結局、自分は、連合赤軍のことを何も知らずに中継していたことに気づいたのです。連合赤軍は栃木県の銃砲店を襲撃し、散弾銃やライフルを手に入れました。それが事件で使われたわけですが、私は別の新左翼グループが引き起こした別の事件だと思い込んでいたのです。全てがそんな具合でした」
NHKと民放の中継自体は、大成功を収めた。翌日の新聞各紙は、あさま山荘事件に関しては全く読む必要がない。こんなことはテレビ史上初めてのことだったという。
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