死を前にした秀吉の前で、家康はなぜ泣いたのか 悲しみ? いや……イエズス会が記していた涙の理由

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 死にゆく秀吉は、息子である秀頼と、家康の孫娘である千姫を結婚させるよう、家康に頼んだ。それは家康の謀反を恐れたからに他ならない。居並ぶ大名たちの前で、それを言い渡された時、家康は涙を流したという。その涙の理由を、イエズス会の宣教師は二つ記していた――。(本稿は新潮新書『大坂城―秀吉から現代まで 50の秘話―』より再構築されたものです)。

大坂城には秀頼、伏見城には家康

 豊臣秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、伏見城において、62年の生涯を終えた。死に先立って秀吉は、自らの死後、愛児秀頼を大坂城に遷すよう遺言した。

 そして、大坂城には前田利家が入って秀頼を後見し、徳川家康には伏見城で天下の政治を沙汰するよう命じた。あわせて、家康の孫娘・千姫と秀頼との結婚も決められた(「豊臣秀吉遺言覚書」)。

 秀頼の大坂遷座について、イエズス会宣教師フランシスコ・パシオは、

「国の統治者が亡くなると戦乱が勃発するのが常であったから、これを未然に防止しようとして、太閤様は日本中でもっとも堅固な大坂城に新たに城壁をめぐらして難攻不落のものとし、城内には主要な大名たちが妻子とともに住めるように屋敷を造営させた。太閤様は、諸大名をこうしてまるで檻(おり)に閉じ込めたように自領の外に置いておくならば、彼らは容易に謀反を起こし得まいと考えたのであった」(1598年10月3日付「1598年度日本年報」)

 と解説する。

 これによると、豊臣政権下の主要な大名全てが大坂に屋敷を構え、妻子を置くように命じられたかのように思われるが、イエズス会の「1599-1601年日本諸国記」に、

「都には暴君太閤様が築いた壮大な伏見城があり、大坂には同じ暴君が築いた日本中で最大で最強の、実に堂々とした城がある。既述のように、これら二つの城内に日本の全領主が、すなわち伏見にはこの都から西域の国々の領主、また大坂には東域の国々の領主が自分の子秀頼とともに居住することを命じた」

 とあり、慶長五年卯月八日付の島津義弘書状にも、

「伏見へハ西国衆御番たるべきよし御掟仰せ出され候」

 と記されるので、実際は、西国大名は伏見に、東国大名は大坂に屋敷を構えるよう命じられたことがわかる。秀吉は、家康の入る伏見城には豊臣家や前田家に近い西国大名を置いて牽制し、秀頼と利家の入る大坂城には家康と親しい東国大名を置いて、彼らの動きを封じようと考えたのである。

家康だけが政権を奪える

 秀吉は、家康による謀反を警戒していた。

 先の「1598年度日本年報」には、そうした事情と、秀吉と家康との興味深いやりとりが記録されている。

「太閤様は、自分亡き後、6歳になる息子秀頼を王国の後継者として残す方法について考えを纏(まと)めあげた。

 太閤様は、関東の大名で8カ国を領有し、日本中でもっとも有力、かつ戦さにおいてはきわめて勇敢な武将であり、貴顕の生まれで、民衆にももっとも信頼されている徳川家康だけが、日本の政権を簒奪(さんだつ)しようと思えば、それができる人物であることに思いを致し、この大名家康に非常な好意を示して、自分と固い契りを結ばせようと決心して、彼が忠節を誓約せずにはおれぬようにした。

 すなわち太閤様は、居並ぶ重立った諸侯の前で、その大名家康を傍らに召して、次のように語った。

『予は死んでゆくが、しょせん死は避けられぬことゆえ、これを辛いとは思わぬ。ただ少なからず憂慮されるのは、まだ王国を統治できぬ幼い息子を残してゆくことだ。そこで長らく思い巡らした挙句(あげく)、息子自らが王国を支配するにふさわしくなるまでの間、誰かに国政を委ねて、安全を期することにした。

 その任に当る者は、権勢ともにもっとも抜群の者であらねばならぬが、予は貴殿を差し置いて他にいかなる適任者ありとは思われぬ。

 それゆえ、予は息子とともに日本全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したならば、かならずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。

 その際、この盟約がいっそう鞏固(きょうこ)なものとなり、かつ日本人が挙げて、いっそう慶賀してくれるよう、次のように取り計らいたい。

 貴殿は、嗣子秀忠により、ようやく2歳を数える孫娘を得ておられるが、同女を予の息子と婚約させることによって、ともに縁を結ぼうではないか。……』と」

 これを聞いて、

「家康は落涙を禁じ得なかった」

 と記されている。

悲しみの涙か、随喜の涙か

 パシオは涙の理由を、

「彼は、太閤様の死期が迫っていることに胸いっぱいになり、大いなる悲しみに閉ざされるいっぽう、以上の太閤様の言葉に示されているように、太閤様の己れに対する恩恵がどれほど深いかを、また太閤様の要望に対してどれだけ誠意を示し得ようかと思い巡らしたからであった」

 と説明したが、

「だがこれに対して、次のように言う者がないわけではなかった。

 家康は狡猾(こうかつ)で悪賢い人物であり、これまで非常に恐れていた太閤様も、ついに死ぬ時が来たのだと思い、随喜の涙を流したのだ。家康は、とりわけ、いとも久しく熱望していたように、今や国家を支配する権限を掌中に収めたのも同然となったことに落涙せざるを得なかったのだ」

 と付け加えることも忘れなかった。(了)

デイリー新潮編集部

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