松鶴家千とせさん死去 「たけしは酒を飲んで収録に…」「渥美清にバカヤローと怒られ…」 語っていた浅草芸人伝説
“闇営業”での交流
そもそも幕間の寸劇など、女の裸が目当ての男性客は見向きもしない。
「結局は、トイレタイムとなるのがオチ。そこを、どう自分に目を向けさせるか。
少しでも場数を踏みたくて、飛び込みで劇場を訪ね、幕が開く前の10分をもらって、そこで芸をやらせてもらったり。
僕らにとって、当時の浅草は町全体が芸の学校みたいな感じで、いろんな学びの場があったんです」
その一つが、事務所や師匠のワクを超えた正規ではない営業。いわば、2年ほど前に吉本興業のタレントたちが世間を賑わせた“闇営業”だった。
「たとえば、地元浅草の不動産会社の社長さんが、創業記念の集まりや忘年会とかに、タニマチとなって芸人を呼ぶんです。
芸人側にも、面倒見のいい世話役がいたものです。僕は、関敬六さんからよく声をかけられていました。
そこで僕ら若手は、普段は見られない他人の芸にふれたり、ときには司会までやらされますから、自然に腕が磨かれるんです。
そんな宴席には、フランキー堺さんなどもいて。彼のような大御所は破格のギャラだったでしょうが、僕らは小遣い程度でしたね。
あるときは、やはりフランス座出身の俳優の長門勇さんの代役で、浅草から九州くんだりまで営業へ行ったこともありました」
よく働き、よく遊んだ。飲む打つ買うは、浅草芸人のまさに芸の肥やしだった。
「酒を飲みに行って、いざお勘定となったとき『金がない』『俺もない』で、誰一人キャッシュを持ってなかったことも。
それでも、先輩の顔パスで飲めたし、居合わせた客が贔屓の芸人がいるというので奢ってくれたり。
たこ八郎さんなんて、芸人たちを引き連れて、ベロンベロンになって飲みまわってる姿を、よく目撃したもんです。
楽屋では、麻雀はもちろん、花札にチンチロリン。これも、胴元になる人は決まってました。意外に、漫才師ではなく落語家の真打だったりするんです。
テレビでお茶の間の人気者だったある師匠は、『おーい、集まれ』で、落語家も漫才師も垣根なく誘ってくれました。この人は、吉原へも大勢で繰り出していく。
でもね、やっぱり遊んでいる人のほうが魅力的で、人も集まるし、芸にも艶があるんですよね」
今では御法度だが、当時の浅草では、まだヒロポンも蔓延していた。
「これも、師匠が『ヒロポン、いくぞ』と声をかけると、弟子がそそくさと準備を始めるんです。
そうそう、一時はパイプカットも芸人仲間で流行って、『みんなでやろう』なんて大騒ぎしたこともありましたっけ」
落語家の話が出たが、お笑いと古典落語のジャンルを超えた交流も、今以上に盛んだった。
「噺家の世界で楽屋のムードメーカーだったのが、眼鏡がトレードマークの月の家圓鏡さん(後の八代目橘家圓蔵)。よく、連れ出してもらいました。
『笑点』の司会をしていた五代目三遊亭圓楽師匠は、たまたま家が近所のご縁もあったんだけど、楽屋でもいつも笑顔で、まさしく“星の王子さま”でした。
よくゴルフをしたのが、古今亭志ん朝さん。不思議にウマが合ったんです」
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