松鶴家千とせさん死去 「たけしは酒を飲んで収録に…」「渥美清にバカヤローと怒られ…」 語っていた浅草芸人伝説
“わかるかなぁ わかんねェだろうナ”でおなじみ、漫談家の松鶴家千とせさんが2月17日に心不全のために亡くなった(享年84)。週刊新潮では昨年、インタビューを行い、千とせさんだけが知る「浅草芸人」たちのエピソードの数々について聞いていた(以下は「週刊新潮」2021年5月20日号に掲載された内容です)
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「ポン」
「いや、それロンや!」
「あちゃー、やられた」
今からおよそ50年前の、名古屋の大須演芸場。本日最初の漫談の舞台を終えた松鶴家千とせは、次の出番まで、大阪の兄弟漫才師の中田ダイマル・ラケットらと、いつもの楽屋麻雀に興じていた。
高い手を振り込んで腐っていると、そこへ「師匠の芸風を慕ってます」と言って、無名の若手漫才コンビが闖入してきた。
「僕は、てっきりベテランの中田さんたちを訪ねてきたんだろうと思ってたんです。そしたらダイマルさんが、『わてらでっか、それとも、東京はんか』って二人に聞いた。つまり、どっちの師匠が目当てなのかを確認したんです。
すると、コンビの片割れの猫背のほうが、『東京はん……いや、千とせ師匠です』って、ボソボソッと言うじゃない。なんだ、僕なのかって。それが、ビートたけしとの初対面でした。
その少し前まで僕が組んでいたコンビの漫才を見ていたそうで、『パンチの効いたネタが好きでした』なんて言うんだけど、終始うつむき加減で、シャイというよりネクラな印象。これは、その後もずっと変わらなかったですがね」
やがてツービートとなるビートたけし(74)、ビートきよし(71)の両人と出会った日のことを、千とせはこうふり返った。
1938年、満州生まれの福島育ち。15歳でジャズシンガーを目指して上京し、夫婦漫才の松鶴家千代若・千代菊に入門。
70年代半ば、アフロヘアにサングラス姿で、「俺が昔、夕焼けだった頃」と始まる漫談で一世を風靡。レコード「わかんねェだろうナ」は160万枚のミリオンヒットとなり、映画「トラック野郎 望郷一番星」にも出演した。
あれから半世紀。千とせは、戦後浅草の黄金期を知る数少ない生き証人となったが、その「浅草の灯」が消えたと言われて久しい。
「70年代まで、浅草には、お笑いや演芸系の事務所だけで、大小合わせて60はあったんじゃないかな。それが今や、ほぼゼロという有り様。淋しい限りです」
終戦後、東京随一の歓楽街「浅草六区」は、演芸場はじめ寄席、映画館、浪曲や女剣劇の常打ち小屋などがひしめく、まさに日本のブロードウェイだった。
なかでも男たちの鬱屈を晴らしてくれたストリップは人気で、ロック座、東洋劇場など、どこも大盛況。
ビートたけしの古巣ともいわれるフランス座には、明日のスターを夢見る若手芸人だけでなく、井上ひさしなど作家志望も集まり、浅草文化の中心とも称されたほど。
由利徹、渥美清、コント55号を結成する坂上二郎と萩本欽一(80)など、のちに日本の喜劇界を牽引する錚々たる顔ぶれが、ダンサーの煽情的な踊りの合間にコントや寸劇を演じていた。
「国民的俳優となる渥美さんですら、当時はまだ自分のスタイルも出来上がっていなくて、いつも物静かに他の人の芸を観察している印象でした。
浅草に限らず、今では名優と呼ばれる伊東四朗さんも、てんぷくトリオの一員で、おとなしい感じの人でした。昨年、惜しくもコロナで亡くなったザ・ドリフターズの志村けんさんも、いわゆる坊や時代で、いつも慌ただしく下働きしていた。
それぞれに、三波伸介さん、いかりや長介さんという強烈な個性のリーダーのもとで、自分の芸を存分に発揮できるタイミングを待っていたんですね」
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