「さんま御殿」でも笑いを取れず……今思い出す「林家三平」の豪華すぎた襲名披露公演

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実力の世界

「笑点」の大喜利は、決して噺家のアドリブだけで構成されているわけではないようだ。放送作家の高田文夫は「週刊ポスト」(22年2月4日号)の連載「笑刊ポスト」で、こう書いている。

《いま国民のほとんどの人は知っていることだがスタッフのテロップに大勢の構成と名乗る放送作家がいるがあの人達は皆な“大喜利”の問題と答えを考えているのだ。そのネタに演者はアレンジを加えたりしている。誰も即興で答えてるなんて今や思っちゃいない。大学に入った私は都内の落研の有能な連中を『笑点』の作家から集められて、実は毎回答えのギャグを考えるバイトをしていた》

 バイトをしていた本人が書いているのだから間違いないだろう。回答が事前に用意されていても、面白くもつまらなくもなるのが芸の力。三平降板については、こう触れたこともあった。

《大喜利マニアが喜んだのは三平の『笑点』降板。やっぱり実力の世界だからな……》「週刊ポスト」(22年1月21日号)

 三平も自覚があったのか、「笑点」最後の挨拶はこう結んだ。

三平:表に出て自分のスキルを上げて、座布団10枚を獲得するためにも勉強し直してまいります。体を鍛え、心を鍛え、芸の幅を広げて、いろんな経験をして戻ってまいります。本当にありがとうございました。

 だが、この挨拶も不評だった。

甘やかされた悲劇

「“勉強し直してまいります”というのは、落語好きから言わせるとおこがましい気もします。このセリフは、徹底的に練り込んだ芸で知られた昭和の名人、8代目桂文楽が、国立劇場で演じた『大仏餅』の中でセリフが思い出せなくなり、“勉強し直してまいります”と挨拶して高座を降り、そのまま引退した最後の言葉なのです」

 同じ噺家として洒落のつもりだったのだろうか。もちろん三平に引退する気などない。

「『さんま御殿』でも本人が語っていたように、甘やかされて育ったことの悲劇かもしれません。父の初代三平は、美空ひばりや長嶋茂雄、石原裕次郎と肩を並べる人気で、彼らとの親交も厚かった。加山雄三に抱っこされ、松田聖子が自宅に遊びに来たこともあったとか。晩年の子でしたから余計に可愛がられたのでしょう。9歳の時に亡くなってしまいましたが、それ以後は総領弟子の林家こん平師匠や林家ペーさん、パー子さんら一門の寵愛を受けたそうです。4人きょうだいの末っ子ですので、母の海老名香葉子さんの思いも相当だったでしょう」

 圧巻だったのは、09年の2代目三平襲名披露公演だった。石原プロモーションの仕切りで両国国技館を借り切り、6500名を無料招待。司会は徳光和夫と小島奈津子、ドレスを着た松坂慶子が「愛の水中花」を、舘ひろしは「泣かないで」を歌い、コロッケはモノマネを披露。噺家仲間も多数参加した。なかでも爆笑を呼んだのが、ビートたけしの祝辞だった。

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