同期・西方仁也が明かす「原田雅彦」の金メダル秘話 「最初は『あんまり飛ぶなよ」と思ったけど」(小林信也)
手袋とアンダーシャツ
98年2月17日、雪辱を期す競技前、葛西の元に原田が来て言った。
「手袋、貸してくれないか」
葛西は黙って渡した。
「原田さんの思いはすぐわかったよ。一緒に飛んで4年前の償いをしたいんだろ。大きなお世話だと思った」
葛西が苦笑する。手袋だけ飛んでも気は晴れない。原田は西方の元にも行った。
「アンダーシャツを貸してくれないか」
西方はテストジャンパーの控室にいた。着ていたシャツを脱いで渡した。西方は、競技前にテストで飛ぶ役を頼まれ、引き受けていた。その秘話は、昨年公開された映画「ヒノマルソウル」で詳しく描かれている。
原田はふたりの思いを携えて飛んだ。しかし1本目、岡部121.5メートル、斎藤浩哉130メートル、原田79.5メートル、船木和喜118.5メートル。悪天候とはいえ極端な失敗ジャンプ。日本は4位。強風で競技は長時間中断された。中止なら1本目の成績で順位が決まってしまう。そうなれば日本はメダルに届かない。
やがて、「25人のテストジャンパー全員が安全に飛べたら競技を再開する」と決定される。金メダルの望みが、テストジャンパーたちに託されたのだ。彼らは荒天の中、次々に見事な軌跡を描き、着地を決めた。
最後のテストジャンパーは西方だった。吹雪の中、メダルのない勝負に挑んだ。記録は123メートル。K点越えの大ジャンプが2本目の扉を開いた。そして、岡部が137メートル、斎藤124メートルのあと、原田は137メートルの大アーチを描いた。最後の船木が125メートルを飛び、日本は逆転で金メダルを獲った。
アプローチ脇の階段で競技を見ていた葛西は、原田が踏み切ると大声で「落ちろー!」と叫んだ。
「金メダルが決まって、私は吹雪の中、宿舎までの道のりを歩いて帰りました。号泣。涙があふれて止まらなかった」(葛西)
これほど複雑な涙を人生の中で誰が経験するだろう。
「自分も最初は胸の中で原田に『あんまり飛ぶなよ』と叫んでいました」、そう言った後、西方はぽつりとつぶやいた。
「でも最後のテストジャンプを飛んだら、原田に飛んでほしいと思っていました」
そして原田は2月の北京五輪で日本選手団の総監督を務める。