織田信長の本当の墓はどこにある? 秀吉を「人非人」と罵った僧が弔った信長の骨

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 天下統一を目前にして、本能寺の変によって、明智光秀に討たれた織田信長。遺体は発見されておらず、その墓は織田一族の墓所がある京都・大徳寺の総見院とされている。しかし京都にはもう一つ、阿弥陀寺にも信長の墓があるのをご存知だろうか。しかも、そこには信長の骨が葬られているという。なぜ二つの墓があるのか。その陰には、天下人となった秀吉の脅しにも屈しなかった、一人の気概ある僧侶がいた――(本稿は新潮新書『大坂城―秀吉から現代まで 50の秘話―』より再構築されたものです)。

木像で営まれた信長の葬儀

 天正十年(一五八二)九月十二日、秀吉は織田信長の四男で、秀吉の養子となっていた於次(おつぎ)秀勝を喪主に、京都・紫野の大徳寺で「総見院殿贈太相国一品泰岩大居士」の百ヶ日法要を主催した。

「総見院殿贈太相国一品泰岩大居士」は同年六月二日に本能寺で非業の死を遂げた信長に贈られた法号である。そして十月十五日にはやはり大徳寺で信長の葬儀を営んだ。本能寺の変後、信長の遺体は発見されなかったため、等身大の木像を作り、それを棺に入れて葬儀が行われた。棺の前を池田輝政、棺の後ろを於次秀勝が歩き、秀吉は太刀を持って随行した。池田輝政の父・恒興は、信長の乳母の子で、信長とは乳兄弟だった関係から、輝政がこの役目を務めた。

 この信長の葬儀には京都中から見物人が集まり、すさまじい人出となった。秀吉は葬儀料として一万石を大徳寺に納めた。

 さらに秀吉は信長の菩提寺を創建した。大徳寺塔頭の総見院がそれで、信長の法号にちなんで命名された。境内には信長をはじめ、織田一族の墓所がある。

信長の骨

 ところで、信長の墓は京都市上京区鶴山町の阿弥陀寺境内にも存在する。

 その事情を「信長公阿弥陀寺由緒之記録」(「改定 史籍集覧」第廿五冊所収)は以下のように語る。

 阿弥陀寺開山の清玉上人は信長と昵懇(じっこん)の間柄であった。

 明智光秀が謀反を起こし、本能寺に信長を襲ったと聞き、驚いた清玉上人は二十名ほどの僧侶を連れ、急いで本能寺に駆けつけた。けれど周辺は明智勢で満ち溢れ、本能寺に近づくのは難しい状況であった。

 上人は辺りをよく知っていたので、裏にまわり、垣を破って境内に侵入したが、既に本能寺には火がかかり、信長は自害したと聞き、上人は力を落とした。

 傍らを見ると、墓地の後ろの藪に十人ほどが集まり、木の葉をくべているのが目に入った。不思議に思い、上人が近づくと、彼らは皆、上人顔見知りの信長家臣であった。

「何をしておられるのか、信長様はどうなされたのか」と上人が問うと、

「既に信長様は切腹なされ、『遺骸を敵に取られるな、首を敵に渡すな』とのご遺言でしたが、敵が取り囲む中、まさかご遺骸を抱いて立ち退くわけにもいかず、ここで火葬にして灰となし、その後我々も切腹し、御供仕る覚悟です」と彼らは返答した。

 上人が、「火葬は我々僧侶の仕事。たくさんの僧も連れてまいりましたので、火葬はお任せください。お骨は我が寺に持ち帰り、丁重に葬り、お墓を建て、葬儀・法要も営みますので、ご心配なく。皆さんはもうひと働きし、見事討死して信長様の御供をなさってください」と言うと、彼らは喜び、表に向かって行った。

 上人は信長の骨を取り集め、衣に包んで、まるで本能寺の僧が寺から立ち退くように装い、阿弥陀寺に戻った。世の中が落ち着きを取り戻すのを見計らい、上人は塔頭の僧侶たちとともに密かに葬儀を行い、骨を葬り、墓を建てた。

秀吉の三度にわたる寄進の申し入れを断る

 山崎合戦で主君の仇を報じ、信長後継者の道を歩み始めた秀吉は、信長の墓が阿弥陀寺にあるのを知っていたので、阿弥陀寺で信長の法要を盛大に催したいと申し入れてきた。

 しかし上人は、「信長公の法要は我々で相応に営んでおります」と断り、

「それなら法事料として三百石の寺領を寄進しましょう」との秀吉の申し出も、

「法要にそれほどの費用はかかりません」と断った。

 さらに秀吉は、「とはいっても、信長公の墓所を永代維持するにはそれなりの費用がかかるでしょう」と三度にわたり寺領の寄進を申し入れたが、上人の返答が変わることはなかった。

 秀吉は激怒し、「それなら信長公の菩提寺を別に造る。今後は誰もこの寺に参らないようにするが、それでもいいのか」と脅したが、上人は「ご勝手次第になさればよろしかろう」と返事をした。こうして秀吉は大徳寺に総見院を建立した。

 上人は、「信長公のご子孫を天下人とし、秀吉自身は執権として政治を行うのが、人としての道である。であるのに、秀吉は信長公から賜った厚恩を忘れ、天下を我が物にし、あろうことか、織田一族の方々を家来にした。そんな『人でなしの人非人』から施しを受けるわけにはいかない」と、秀吉からの申し出を断ったのである、と。

 公卿山科言経(ときつね)の日記を見ると、天正十年七月十一日に、既に言経は、阿弥陀寺の信長墓所に参拝しており、早くに阿弥陀寺に信長墓所が営まれたことが確認できる(「言経卿記」)。

 九月十二日条には、「阿弥陀寺へ参詣了。天徳院殿御墓所へ参了。今日百ヶ日也」とあり、言経は阿弥陀寺の百ヶ日法要に参列した。「天徳院殿」については、九月七日条に「前右府信長公」と注記している。

 阿弥陀寺が秀吉による総見院創立以前に信長の墓を建て、「総見院殿」とは別に「天徳院殿」の法号を贈っていたことは事実である。(了)

デイリー新潮編集部

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