【袴田事件と世界一の姉】巌さんの縦縞パジャマに付いていた「血」を巡る異様な新聞報道

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巖さんにこがね味噌を紹介した「任侠の男」

 1月24日の朝日新聞夕刊が「まちの記憶」で静岡市清水区を取り上げている。記事によると、幕末から明治時代の博徒・実業家として知られる清水次郎長(本名・山本長五郎)は、元々は巴川河口の川港だった港を「これからは大型船の時代、外海に開けた場に移すべき」として回船問屋を説いて回り、移設させた清水港の発展に大きく寄与した男だった。清水港は全国に18しかない「国際拠点港湾」の一つである。清水市が生んだ最近の有名人には「ちびまる子ちゃん」生みの親、さくらももこさん(1966~2018年)がおり、清水港には「ちびまる子ちゃんランド」がある。こがね味噌の一家惨殺事件が起きた1966年6月は、さくらさんがまだ1歳の頃だ。清水港はマグロ漁業などの遠洋漁業の基地となり、こがね味噌は漁船に積み込む大量の味噌や醤油を製造していた。

 半世紀前に時計の針を戻す。1966年6月30日未明、清水市で驚天動地の一家4人殺人・放火事件が起きた。

 当時の巖さんの生活について付記しておく。プロボクサーを引退した巖さんは最初、清水市内の「太陽」というキャバレーのボーイとなった。その頃、巖さんはA子と出会い結婚を望んだが、A子の父親に「結婚は駄目だ」と言われる。途方に暮れた巖さんに救い主が表れた。「太陽」に酒を納入していた酒店の西宮日出男さんだ。

 山本徹美氏の『袴田事件』(1993年・悠思社)によれば、「おやっさん、結婚したい女がいるんだけど、向こうの父親が反対するんだ」と言ってきた巖さんに対して、西宮さんは父親を説得してやろうと会いに行った。そうすると、「バーテンなんかじゃだめだ。店の一つも持ってくれないと」と言われたので、「それなら店の一軒やりくりする立場になったら一緒にさせてやるか」と念を押してきたという。

 大の男の結婚話に、親兄弟でも親戚でもない他人がここまですることに驚くが、西宮さんには真面目で働き者の巖さんを「何とか救ってやりたい」という男気があった。山本氏も書いているように、「次郎長」の清水市は当時、そうした男気や任侠肌が残る街だったのだろう。

 何度か会いに行った「清水の会」の山崎さんに、西宮さんは「『太陽』に酒の納品に行くと、袴田だけが何も言わずに車から降ろすのを手伝ってくれた。ほかのボーイは知らんぷりしていた。真面目な奴だなあと思って目をかけてやった」と話していた。

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