1200億円の資産運用が支えるゲーム会社の成長――襟川恵子(コーエーテクモHD代表取締役会長)【佐藤優の頂上対決】

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「最悪の女」

佐藤 会社が大きくなると、今度は「経営」をしていくことになります。その中心を襟川さんが担われましたが、どこかで学ばれたのですか。

襟川 私は1967年に多摩美術大学に入りましたが、当時からいろんなアルバイトをしてきたんです。

佐藤 学園紛争が激しかった時代です。美大は特にラジカルでした。

襟川 ええ、ストライキがあって、授業がなくなったときは、デパートでディスプレーをやったり、出版社の本のデザインやテレビ局の子供向け番組の作画をしていましたね。

佐藤 美大生だから特別なアルバイトがある。

襟川 デパートでは、営業が終わって人様のいない夜のうちにディスプレーする。そのうち、昼間もジュエリー売り場でアルバイトをして、それがすごく勉強になりました。仕入れと販売の仕組みを聞くと教えてくれたんですよ。まず原価(下代(げだい))がある。その2.5倍から3倍で定価をつける。これが上代(じょうだい)と呼ばれるもので、その50~60%が中代といって卸価格になっている、とかね。

佐藤 実地に勉強された。

襟川 ゲーム業界は、問屋さんが、定価の17%で卸せとか、3千本買うから30%で、と言われたりしました。学生が1週間で作ったソフトが売れる時代です。そんな中で卸価格55%を譲らないので、驚かれたでしょうね。

佐藤 自分で仕事を覚え、チャレンジしながらマネジメントされてきたのですね。

襟川 社長がゲームを作るなら、それを多くの人に買ってもらう仕事は私がするしかありません。広告や受発注、デザインやコピーライト、営業も。だから夫はゲームを作る「いい人」なんですが、私はとんでもなく「がめつい女」と思われていましたよ。

佐藤 ただ、そうしたシビアなやりとりを誰かがやらなきゃいけない。

襟川 「信長の野望 全国版」で任天堂のファミコンに参入した時も大変でした。ファミコンは、それまでとは違って扱う業者の多くがおもちゃ問屋さんなんですね。当時は、ソフトメーカーが北海道から九州まで、全国の問屋様を30社ほど回って注文を取るのが一般的でした。でもうちにはまだ私一人しかいないわけです。

佐藤 何年くらいのことですか。

襟川 1988年です。全国を回れないので、達筆な方に巻紙でご挨拶を書いてもらい、昼食会兼「信長の野望」受注会を、私たちの結婚披露宴をした帝国ホテルで開催しました。そこでも大手には不利の卸価格は55%掛けで、全社一律です。そこまでは何とかくぐり抜けたのですが、「注文分の半金を前払いでお願いします」と言ったとたんに、猛反発を食らいました。

佐藤 新規参入なのに、業界のルールを破ろうとしたわけですね。

襟川 ファミコン参入にあたっては、ソフトメーカーが任天堂さんに前金を納めなければならない仕組みでした。でもそんなお金はない。だからこれからビジネスでお付き合いする方々に先払いしていただこうと考えた。

佐藤 問屋さんからしてみれば、これから取引を始める会社ですから、まだ信用もない段階です。

襟川 ええ。うちよりずっと信用力の低い会社に先払いなんかできるかと大剣幕で怒られました。ですから「一社様でも当社を信じてくださる方がいらしたらお取引をお願いします」と申しました。すぐに任天堂さんに「非常識な女がわけのわからないことを言っている」と、次々に電話が入ったそうです。すっかり落ち込みましたね。襟川はそれぞれの役割があるからと涼しい顔でした。でも、結局はその条件を全て飲んでいただきました。

佐藤 名前が轟き渡りましたね。

襟川 それから「最悪の女」という評判がついて回りました(笑)。そして横浜銀行の日吉支店は口座に数百万から数千万円がどんどん振り込まれたので、何事かと支店長が慌てふためいて飛んできました。

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