1200億円の資産運用が支えるゲーム会社の成長――襟川恵子(コーエーテクモHD代表取締役会長)【佐藤優の頂上対決】
パソコン草創期に夫と二人三脚で始めたゲーム会社は、「信長の野望」「三國志」などゲーム史に残る作品を生み出し、それらのシリーズはいまも続いている。この成長を支えたのは機関投資家としての妻の存在だった。浮き沈みの激しいゲーム業界の中で、株の売買によって経営基盤を安定させたのだ。
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佐藤 「信長の野望」「三國志」など、コーエーテクモは一連のシミュレーションゲームで一時代を築き上げました。もともとシミュレーションゲームは、実際の軍事ではもちろん、外交でも使われます。だから私にはなじみ深いものなんです。
襟川 確かに外交にも、とても有効でしょうね。
佐藤 ポリミリ(ポリティコ・ミリタリーゲーム)と言って、参加者が各国の政策決定者となり、限られた時間と情報の中で、次々と発生する事態を分析して、国益に適った政策を決めていく戦略ゲームもあります。海外の政府機関や大学ではよく行われています。
襟川 1989年に東京大学の東洋文化研究所長だった関寛治(ひろはる)教授などのご要望もあり、襟川も発起人となってNPО法人日本シミュレーション&ゲーミング学会(JASAG)を設立しました。これを支援するため、1994年には公益財団法人科学技術融合振興財団(FOST)も設立しています。1990年代初頭には、ニューハンプシャーでのゲーミング学会で、航空工学が専門でのちに文化勲章を受章される近藤次郎東大名誉教授が「信長の野望」を取り上げ、マネジメントゲームとしての教育効果について発表してくださいました。それがきっかけで、ビジネスゲームとしてハーバード大学の大学院やカナダなどの大学で使われたりしました。
佐藤 昔は大きな地図を広げて、サイコロを振ったりしながら、その上で駒を動かしました。それがコンピューターの中に入ったのは、画期的なことです。
襟川 国会議員の世耕弘成先生は、私どもの経営シミュレーションゲーム「トップマネジメント」のおかげで、政治家になる前に勤めていたNTTのマネジメントゲーム研修で1位になった、とおっしゃっていました。教育効果が高いので、実社会でも活用されています。震災時には治水工事がいかに大切か「信長の野望」で勉強しろ、などといった書き込みがネット上に結構ありました(笑)。
佐藤 ゲームを作ったシブサワ・コウこと、夫君・襟川陽一さんの『0から1を創造する力』(PHP研究所)を読むと、戦国武将は戦っているだけではなく領地の経営もしており、その要素が多くの人の心をとらえた、と分析されています。最初からマネジメントという要素が埋め込まれていたのですね。
襟川 そうしたところが評価されたこともあり、夫は、よく大学に呼ばれて講演しています。
佐藤 そもそものきっかけは、襟川さんが夫君の30歳の誕生日に、パソコンをプレゼントしたことでした。当時、27万円近くしたそうですね。
襟川 シャープのMZ―80Cに、プリンターなどもつけましたから、四十数万円ほどでした。
佐藤 当時、夫君は家業を継いで、別の仕事をされていらっしゃったのですよね。
襟川 夫は栃木県足利市にあった染料工業薬品専門商社の3代目です。でも繊維産業は中国に押され、もう斜陽産業となっていた。結婚当時は、取引先の商社に勉強を兼ねて勤務していましたが、実家がうまくいかなくなって呼び戻されたんですね。
佐藤 足利市はかつて繊維産業で栄えた町でした。
襟川 私は足利には行きたくなかった。発展性がない仕事だし、実家も遠くなる。倒産してくれれば行かなくて済むと思っていたら、本当にそうなってしまった。足利で襟川は残務整理に追われて、繊維産業に希望を失っていましたね。でも、彼の父の強い再建願望に加え、私が倒産を望んで言い当てた責任も感じて、夫ももう一度と再起を願い、光栄という会社を設立しました。
佐藤 その時の資金はどうされたのですか。
襟川 私の貯金を出したり株を売ったり、親戚に助けてもらったりと、あらゆる手段で工面しましたね。
佐藤 また同じ繊維関係の仕事を始めたのですか。
襟川 そうです。支援して下さる方もいらしたので。でも一回倒産した会社ですから、取引先から見積もりもなかなか出てこない。そんな時に夫は書店で「マイコン」という雑誌を読んで、パソコンが「魔法の小箱」だと感じたようです。もう欲しくて、しかたない様子でした。
佐藤 その時はまだ触ったこともない。
襟川 ええ。家計は苦しく、私の給料も出ないので、私の貯金からお誕生日のプレゼント代を出しました。そうしたらパソコン漬けとなり、ベーシックやアセンブリといったプログラミング言語を独学で覚えていきましたね。もともとゲームは好きでした。学生時代もこたつの天板をひっくり返してマス目を描き、独自のゲームを作って遊んでいましたから。
佐藤 それから1年で歴史シミュレーションゲーム「川中島の合戦」が生まれます。早いですね。
襟川 昼間は、仕事に使う財務や在庫管理ソフトなどを作っていて、企業からの注文もありました。ゲームは遊びみたいなもので、当初は夜に没頭してやっていましたね。
佐藤 適性があったんですね。
襟川 でも、初めはあまり売れなかった。当時は他にも日本で初のロールプレイングゲーム「ドラゴン&プリンセス」や「地底探検」「クフ王の秘密」といったゲームを作っていましたが、ディストリビューターからは、タイトルが野暮だし光栄なんて会社名からして田舎臭いと。ゲーム会社は、ハドソンとかマイクロキャビンとか、みんなカタカナでした。でも「川中島の合戦」の評判がよく、それをレベルアップした1983年の「信長の野望」から爆発的に売れ出しました。
佐藤 当時から夫君のゲーム作家としての才能を信じていたのですか。
襟川 信じるも何も、先のあるビジネスと思って一緒にやっていましたから。私も企画を出したり、デザインや宣伝もしました。雑誌に広告を出したら、どんどん現金書留が送られてくるようになったのには驚きましたけれども。
佐藤 当時、趣味的なものは雑誌広告に頼る比率が高かったですよね。
襟川 でも、正規の広告は料金が高くて使えませんでした。だから版下だけ作って送っておき、ページが空いたら安価で掲載できる“空広(あきこう)”を狙ったら、どこでも最初は断られ、何度もトライして出稿できました。美大卒が役に立ちましたね。
佐藤 まだパソコンが出たばかりの時期でしょう。プログラミングをする人たちはどう集めていたのですか。
襟川 当初はマイコンショップもやっていたんですね。まず足利でショップを出し、それがすごく繁盛したので、横浜市の日吉にある母方の祖母の家にも店を出し、お客様にもプログラミングを手伝ってもらいました。ワープロソフトを発売したり、企業から受注したビジネスソフトも作っていました。
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