石原慎太郎氏にムチ打つ「社民党副党首」と「大学教授」に欠けていること
宮本顕治と中曽根康弘
似たケースは過去にもある。1976年から78年まで首相だった福田赳夫氏(1905〜1995)が死去した際、当時の共産党委員長・不破哲三氏(92)の追悼談話が話題となったのだ(註2)。
《予算委員会の質問が終わると、私の席に必ずきて、いまの質問はどうだったとか、しゃべるわけです。あのころは自民党の首相でも結構そういうゆとりがあって、論戦しながらも面白い関係でした》
逆に共産党の故人に対し、自民党議員、それも元首相が深い追悼の念を示して大きく報じられたこともある。
1958年、党書記局長に就任して以来、40年にわたって共産党を指導してきた宮本顕治氏(1908〜2007)が死去すると、何と元首相の中曽根康弘氏(1918〜2019)が「敵ながらあっぱれ」と記者団に語ったのだ(註3)。
《いろんな困難や妨害に遭遇しながら、共産党の骨組みを作り、全国にその力を伸ばしていった。私たちとは考え方、政策は違うが、一個の政治家として、信念を貫いて堂々とした姿を見て、敬意を表していた。首相の時に質問を受け、敵ながらあっぱれだと感じていた》
《スターリン時代の共産党だから、その影響を非常に受け、初めは武力闘争的共産党の指導者だった。しかし、時代が大きく変化していくにつれて、共産党も彼の指導で変化した》
政治家の自殺
当たり前だが、自民党と共産党といえば、お互いに“不倶戴天の敵”と言っても過言ではない。
1988年には、衆議院予算委員会の委員長を務めていた自民党の浜田幸一氏(1928〜2012)が「日本共産党スパイ査問事件」を引き合いに出し、宮本顕治氏を「殺人者」と呼び、委員会は大紛糾した。
「中曽根さんだって、宮本さんが死去してからしばらく経って評価を求められたら、批判した可能性はあるでしょう。ただ、亡くなった直後ということもあり、一時停戦というか、死者に礼を尽くし、功罪のうち功の部分をコメントしたわけです」(同・記者)
国会議員の場合、自殺という悲劇が起きた時でも、「死者にムチを打つかどうか」が語られたケースがある。
2007年5月、現職の農林相だった松岡利勝氏(1945〜2007)は事務所費の不透明な支出などを巡って、有権者から強い批判を受けていた。
松岡氏は東京の議員宿舎で自殺したのだが、その際、地元の県連関係者が取材に応じ、その発言内容が朝日新聞に掲載された(註4)。
《「不正が見え隠れしたことに対する責任を、死をもって取ったのだろう。死者にむち打たないという日本人の風潮もある」と述べ、事務所費などの問題が沈静化に向かうのでは、といった見方を示す》
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