【追悼】「覗けない地獄も覗いてきた」石原慎太郎が生前語っていたこと
2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎氏。芥川賞作家、国会議員、東京都知事として精力的に活動した石原氏だが、発する言葉には常に熱が込められていた。以下は1995年、「日本の政治はダメだ」と議員辞職した後の日々を追ったレポート。ヨット上、原稿の執筆で滞在した別荘と場を変えながら語った本音、直言、提言。その力強い言葉の端々からは、石原氏の人生観が垣間見えていた。(「FOCUS」1995年9月20号より再掲)
「僕はちっとも虚しくはない」
〔8月24日〕「第113回芥川賞・直木賞贈呈式」に出席。作家の青山光二氏、唐十郎氏らと挨拶を交わす。
「政界でも文壇でも、もともとああいうパーティーはほとんど行かなかったんだけどね。今回は芥川賞制定60周年記念だというんで、何度も招待の手紙が来てね。まあ久しぶりにいろんな人に会えて楽しかったよ」
議員を辞めてからの石原氏の生活は、再び作家活動が中心となっている。「小說に耽溺する」毎日で、写真は山中湖近くの別荘で執筆中のもの。
「辞めた政治家は、みんな虚しかったと言うけれども、僕はちっとも虚しくはない。非常にいい経験をしたと思う。日本のこと、世界のことを、本気で体で考える習慣がついたからね。日本にもこれまで観念的、図式的な政治小説はあったけれども、僕はやっぱり権力の中枢にいて、それを動かしたりしてきたわけだから、書斎にいるだけでは覗けない地獄り覗いてきた。書きたいなあと思うようなこともいっぱいあったから、それが書けると思って、今はわくわくしてますよ。まあ、すぐに政治小説を書き始めるというわけじゃないけれども、今後じわじわと出てくると思う。25年間刑務所にいたようなもんで、やっと出所してきたんだからね。これからは、のびのびとやりたいことができると思うよ」
「あんまり勝っちゃ悪いしな」
〔8月27日〕三浦半島沖で行われた「第9回石原裕次郎メモリアルヨットレース‘95」に参加。このレースは、裕次郎さんを偲んで毎年開催されているもので、大会の名誉会長を務めている石原氏の愛艇「コンテッサ10世」は、昨年の優勝艇。今年は石原氏自身もオーナースキッパーとしてヨットに乗り込んだ。
「本来ならこれくらいのレースは軽く勝つ」はずだったが、なんとスタート時間に遅れてしまうハプニング。
「寝坊しちゃったんだよな。それで朝飯を食いに行ったら、いつもの食堂が、釣りの人でいっぱいでねえ。ウロウロ探してるうちに、なんかギリギリだなとは思っていたんだけど……。スタートラインも遠くに設定されていたから間に合わなかった。まあこっちもホスト役だし、あんまり勝っちゃ悪いしな」
とはいうものの、やはりヨットに乗ると、途端に表情は一変する。大声を張り上げクルーに指示を出す。今回は、石原氏の次男で俳優の良純さんも同乗していたが、「僕がガンガン怒るんで、子供たちは嫌がるんだ。裕次郎も僕と一緒には乗りたいがらなかったしね」。結局、この日のレースは30位で終わった。
海の男を自称する石原氏とヨットとの出会いは、「中学3年か、高校1年の時」。
「逗子に住んでいた頃に、兄弟でせがんで、親父にヨットを買ってもらってね。小さなヨットだったけれども、一サラリーマンの息子にとっては、過ぎたるものではあった。でも、バカ息子が成り金のベンツを買ってもらうのとは違っててね。やっぱり我々兄弟だけがプライベートなヨットを持ってるっていうのは、二人のプレステージを大いに高めてくれた。鍵を貸せば誰でも乗れるっていうもんじゃないからね。これが我々兄弟の人生を大きく変えたと思う」
「日本人の民族的性格は海がつくったと思う」
〔8月29日〕日本船舶振興会が主催するシンポジウム「海と日本」に参加。来年から祝日となる「海の日」を記念してのもので、石原氏はパネルディスカッションに先立ち、基調講演を行った。
「日本は海洋国家だが、日本人は海洋国民ではない。山猿みたいなもの。日本の周辺ほど、気象が目まぐるしく変わる凶悪な海はない。同じ島国でも、イギリスとは全然違う。日本人の物の考え方や、おずおずとしか物を言わない民族的性格は、この日本の海がつくったと思う」
〔9月2日〕この日も講演。日本青年会議所の北海道地区協議会の講演のために、網走へ飛んだ。「これからの北海道は自分たちでつくれ」とハッパをかけて、日帰りで東京へとんぼ返り。
〔9月6日〕山中湖の別荘で、来年早々に発表予定の「肉体」をテーマとした小説を執筆。暑かった今年の夏は、暇を見つけては、時折この別荘にやって来ていたという。隣には裕次郎さんの別荘もある。こちらでの生活はもちろん原稿の執筆が中心だが、その合間にテニス、ゴルフ、ジョギングなどで体を動かす。
「議員を辞めたあとに、ある合理的な断食をやるサナトリウムに入ってね。5キロくらい痩せたんですよ。ゴルフでも、かえってよくボールが飛ぶようになった。こうやって眺めてみると、昔の議員仲間はみんな太ってるよな。不必要に太ってる」
議員を辞めて変わったのは、
「ボサーっと何もしないでいる時間ができた。実はそういう時に、すべての感覚が研ぎ澄まされて、いろんな物が見えたり、耳に入ってくる。無為に過ごす時間っていうのは、政治家の頃にもあったけど、それはイヤイヤ過ごしていたんであってね。くだらん会議に義理で出たり」
石原氏は、3年前に個展を開いたこともあり、この別にも、自作の絵やオブジェがあちこちに飾ってある。「来年の夏前くらいに」再び個展を開く予定だという。
普段はぶっきらぼうにも見える石原氏だが、典子夫人によれば、夫としては「やさしい人ですよ」。
衆議院議員の長男・伸晃氏は、「作家の頃は父の生活は夜型でしたし、政治家になってからも、夜の会合などで忙しく、なかなか顔を合わせることはありませんでした。父と触れ合う機会は、正月と夏の旅行の年に2回くらいでした。しかし、厳しいけれど、子煩悩な親でした。子供には、すごく関心を持っていましたね」。
「政治家でも文学者でもなく、石原慎太郎として…」
〔9月8日〕平沼赳夫運輸大臣と事務所で会談。
「運輸大臣の大、大、先輩ですからね。ご意見をうかがいに来ました」(平沼運輸大臣)。
「僕は政治家でも文学者でもなく、石原慎太郎として、人生家でありたいと思っている。政治を選んだのも、自分を表現して生きる手段の一つとして選んだ。田中角栄の金権政治と戦ったり、政治で自分を表現できた時期もあったんだけどね。歴然とした大きな政治の問題がなくなったのかなあ。いや、そうでもないんだけどな。円高だって、核実験だって重要な問題ですよ。村山首相は、なんでフランスや中国との国交を断絶しないのか。経済関係を切っても何も困らないよ。ワインだったら、イタリアにもいいワインがあるし、ルイ・ヴィトンだって東南アジアに行けばいくらでも偽物があるんだから、みんなそれを買えばいいじゃないか」
「現在の日本国民の政治に対する軽蔑と不信は、まさに私自身の罪科であるものと、あらためて恥じ入り慚愧するのみ」。
こう語って議員を辞職した石原氏。だが、これで完全に政治活動から身を引いてしまうわけではないという。今後は国民に政治を考えてもらえるような運動を仕掛けていく予定で、
「ボツボツ準備はしてますけどね。別にまた選挙をやろうってんじゃないですよ」。その具体的な活動内容については、「まあ、もう少し経ってから」とのことである。