年俸80万円のテスト生から最多勝投手へ 思わぬ掘り出し物だった「助っ人列伝」

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 2021年シーズンで2年連続最下位から日本一に駆け上がったヤクルトの快挙が、新加入の助っ人、ホセ・オスナとドミンゴ・サンタナの存在抜きでは語れないように、チームの浮沈と外国人選手の当たり外れは、表裏一体と言える。何億もの大金をはたいて獲得した助っ人がまったくの期待外れに終わる一方で、安い年俸で入団させた“無印”の選手が思わぬ大活躍を演じることもある。そんな「掘り出し物」とも言うべき懐かしの助っ人たちを振り返ってみよう(年俸の金額はいずれも推定)。【久保田龍雄/ライター】

「同じタイプがいない」

 年俸80万円のテスト生が、2年後には最多勝に輝き、優勝の立役者になるという、夢のサクセスストーリーを実現させたのが、阪神のジーン・バッキーである。

 米2Aナッシュビルでプレーしていたバッキーは、1962年に3Aハワイ・アイランダーズの春季キャンプに参加したが、4月末に戦力外通告を受けたあと、ノンプロ・ハワイ朝日軍でプレーしながら、日本球界入りを目指した。

 バッテリーを組む藤重登が前年まで阪神に在籍していた縁で紹介状を書いてもらい、7月18日に来日。藤本定義監督が遠征から帰るのを待って、7月20、21日の2日間、入団テストを受けた。

 テスト前日のファームとの合同練習では「たいしたことはない」とダメ出しされかけたバッキーだったが、日ごとに投球内容が良くなり、評価も急上昇。190センチの長身から長い腕をくにゃくにゃ動かしながら、直球、チェンジアップ、カーブを投げ分ける独特の投法も、「同じタイプがいない」とセールスポイントになり、晴れて合格を勝ち取った。

 入団が決まると、バッキーは4月に結婚したばかりの夫人をハワイから呼び寄せ、西宮市内の家賃1万3000円の安アパートで日本での新生活をスタート。1年目は0勝3敗に終わったが、2年目に8勝、3年目の64年には29勝9敗、防御率1.89で最多勝、最優秀防御率の二冠を獲得。チームの2年ぶりVに大きく貢献した。

 68年に王貞治(巨人)へのブラッシュボールがきっかけで起きた大乱闘の際に右手親指を骨折し、不運にも選手生命を絶たれてしまったが、巨人戦でノーヒットノーランを記録するなど、NPB通算100勝を記録している。

野村監督が「研究熱心やで」

 バッキー同様、テスト生から大きく飛躍したのが、95年にヤクルト入りしたテリー・ブロスだ。メジャーでは登板10試合に終わったブロスは、同年2月、ユマでキャンプ中のヤクルトのテストを受けると、いきなりブルペンで140キロ台の直球を投げるなど、潜在能力の高さを発揮。205センチの長身から投げ下ろし、右打者の懐に食い込むシュートも威力十分で、「これは落合(博満。巨人)も腰を引くぞ」と野村克也監督以下首脳陣を喜ばせた。

 山田勉からカーブを教わる姿を見た野村監督が「謙虚やなあ。研究熱心やで」と感心したエピソードに加え、テスト合格後、年俸4000万円を提示されると、「そんなに貰えるの?」と驚くひと幕もあった。

 1年目は9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成するなど、14勝5敗、防御率2.33(最優秀防御率)で、開幕前にノーマークだったヤクルトのリーグVと日本一に貢献。2年目以降は故障もあって成績を落としたが、西武時代を含む4年間で通算30勝を挙げた。

 94年シーズン途中に年俸5000万円で日本ハム入りしたキップ・グロスも、大石清コーチの指導で“確変”。95、96年と2年連続リーグ最多勝に輝き、「日本プロ野球史上最大の掘り出し物」と評価する声もあった。

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