長女の帰宅直後に一家4人が惨殺 巖さんは「寮で寝てたら専務の家が火事になった」【袴田事件と世界一の姉】

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「弟のために結婚を断念した」わけじゃない

 しかし、その後、巖さんが殺人、放火などの容疑で逮捕されたことで、33歳のひで子さんの人生は一転した。それまでの彼女の人生を振り返ろう。

 ひで子さんは20歳で恋愛結婚をしたが、21歳で別れてしまう。

「まあ、性格の不一致でしたね」

 その後、周囲からは「しょうもない男でも男は男だから」と再婚を勧められた。しかし、ひで子さんは「しょうもない男なんかと結婚なんかできるか」と突っぱねていた。

「事件の後、『弟のために結婚を断念した』なんてよく言われたり書かれたりしていたけど(筆者もそう書いたことがある)、違うんですよ。巖には関係なく、結婚なんかアホらしくてしてられるか、という気持ちでしたね」と笑って振り返る。

 母のともさんは再婚を望んだが、ひで子さんは母親に対しても強い。ともさんは日頃、ひで子さんの兄嫁について洗濯物の干し方がなっていないとか、鍋の蓋の仕方が悪いとか、愚痴をこぼした。ひで子さんが「じゃあ洗濯物は乾かなかったの?」と訊いたら「乾いたよ」。「鍋はちゃんと煮えなかったの?」と訊いたら「煮えた」。ひで子さんは「そんなら十分でしょ。つまんないことをごちゃごちゃ言わないで」と、母を「叱咤」したという。

男たちと麻雀

 ひで子さんは、一歩外に出れば優秀で豪快なキャリアウーマンでもあった。中学を出てすぐに務めた税務署を退職した後は、民間の会計事務所に勤めた。その後、浜松市常磐町の「富士コーヒー」という会社で主に経理を担当し、優れた能力を発揮していた。さらに、社長に紹介された経営者から経理帳簿を預かり、経理を代行した。

「商売人たちは人付き合いは上手でも、細かい経理が苦手な人は多い。私は税務署や税理士事務所にいたから、そういうのは得意。1件当たり3万円とか5万円とか。ずいぶん稼がせてもらいました」

 遊ぶ時は男性とばかり付き合っていたという。

「女の友達はいろいろとややこしい。男のほうが性に合っていた。独身で週末には行くところもない男連中をアパートに集めては、毎週、麻雀を楽しんでいましたよ」

 高度経済成長期とはいえ女性の社会進出は稀で、「女は早く結婚して家庭に入るべし」との社会通念が強かった昭和30年代である。ひで子さんは当時、破格の「飛んでる女」だった。

「20代から33歳までは、本当に青春を謳歌して、好き放題やっていましたね」

 世を震撼させた放火殺人事件は、そんな最中に起きた。事件の後、巖さんは「警察が近づいてきて『中瀬の神社はどこですか?』なんて聞いてくる。どうも俺を尾行しているみたいなんだ」などと話すようになった。中瀬とは実家の地名だった。

 それでも、ひで子さんや母のともさんは「あれだけの事件だからね。警察は一応、従業員全員を疑ってかかり、みんなが尾行とかされているんだろうよ」などと話し、さして気にもしていなかった。だが、次第に雲行きが怪しくなってゆく。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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