長女の帰宅直後に一家4人が惨殺 巖さんは「寮で寝てたら専務の家が火事になった」【袴田事件と世界一の姉】

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長女の帰宅直後に惨劇

 コンサートの前夜、6月29日の午後10時頃、静岡県清水市横砂(当時)を通る国鉄(現JR)東海道線に面する「こがね味噌」の橋本藤雄専務(当時41)の家に長女・昌子さん(当時19)が京都旅行から帰宅した。橋本家は清水駅と興津駅の中間に位置するが、両駅からは3キロくらい離れている。閉まっていた表のシャッター越しに「今帰った」と昌子さんが声をかけると、中から「ああ、わかった」と父・藤雄さんの声がしたという。昌子さんは父の家には入らず、祖母と住んでいた近くの社長宅に帰って寝た。

 日付が変わって6月30日の午前2時前頃、「火事だどうー」という大声が夜陰をつんざいた。藤雄さん宅の異変に真っ先に気づいたのは、隣家の国鉄職員・杉山新司さんだった。杉山さんは2階の窓から煙が部屋に入ってきたことで急に寝苦しくなり、家族を叩き起こした。消防署へ急報したのち、橋本家に火事を知らせようとしたが、表のシャッターが開かなかったという。近所の男たちが次々と出てきて、「藤雄さん、火事だぞ、起きろ」とシャッターをガンガン叩いたが反応はない。なんとか開けた(シャッターに鍵がかかっていたのかどうかは後に疑問になる)が、真っ黒な煙で何も見えない。地域の消防団も駆けつけ、とび口などで頑丈な木戸などを壊す。

 味噌工場内の寮に住んでいた従業員の佐藤省吾さんが中へ入ると、シャッターの表口の近くの8畳の寝室では妻・ちえ子さん(当時38)と長男・雅一郎さん(当時14=袖師中学2年)が、そしてダイニング横のピアノ室でピアノの横で二女・扶示子さん(当時17=静岡英和学院高校2年)が、それぞれ倒れていた。妻子3人の遺体は炭化し、顔もわからないほど黒こげだった。昼近くなって藤雄さんが土蔵近くで無残な遺体となっていたのを消防隊員が見つけた。

 猛火に包まれた橋本邸は、懸命の消火作業も及ばず全焼し、午前2時半頃、鎮火した。しかし、8畳間の布団やマットなどに大量の血が残されていたことから、失火による焼死ではないことがすぐに推察できた。さらに、至るところでガソリンの匂いがした。柱時計は2時14分を指していた。

 藤雄さんは、入院中の父で「こがね味噌」の創業者でもある藤作社長(当時68)の一人息子。藤作社長は息子一家の惨劇に、「息子は人に恨まれるようなことは何一つないはずだ。自分は損しても負けておけという私の言うことをよく聞き、決して他人とは争うことはなかったのに」と立ち尽くした。「こがね味噌」は静岡県を代表する味噌製造会社だった。県味噌工場協同組合の稲盛利次理事長は藤雄さんについて、「しっかりした経営と文句のない人柄。袖師(自宅付近の地名)の消防分団長もしており火には厳しかった。火事とは考えられない」などと話した。

「凶悪を通り越し猟奇的」

 4人の遺体は県立富士見病院(現・県立総合病院)と国立静岡病院(現・静岡てんかん・神経医療センター)で司法解剖された。藤雄さんは全身に、火傷の深さで3度の火傷を負っていたが、後頭部、胸部、肩などに15カ所に刺し傷や切り傷があり、死因は「失血死」とされた。致命傷は心臓の12センチの刺し傷だった。妻のちえ子さんは4度の火傷で、背中など13カ所を刺されて、死因は失血と火傷だった。二女・扶示子さんは全身に3度から4度の火傷に加え、胸などに9カ所の刺し傷があり、心臓の傷による失血と一酸化炭素中毒が死因とされた。長男の雅一郎さんは4度の火傷、首、胸、手など12カ所刺されており、死因は肺からの出血などだった。清水署の沢口金次署長は「凶悪犯罪を通り越して猟奇的なものでさえある」とコメントした。

 妻と二女、長男はいつもの就寝場所で死んでおり、大きく家の中を動いたのは犯人と格闘したと思われる柔道2段の藤雄さんだけだった。清水署の一室に「横砂会社重役強殺放火事件特別捜査本部」の看板が据えられたが、犯人は杳(よう)としてわからない。

 幕末から明治にかけて活躍した博徒で実業家の清水次郎長(本名・山本長五郎=1820~1893)で知られ、最近は2013年に富士山世界文化遺産に登録された「三保の松原」などの美しい海岸が広がる港町に一挙に緊張が走った。

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