豊臣秀吉の本当の父親は誰だったのか? 天下人の出生の謎を追う!

国内 社会

  • ブックマーク

 下賤の身から、天下統一の覇者へ。日本史上、稀に見る立身出世を遂げた豊臣秀吉の人気は、今なお高い。そんな秀吉の父親は、一般的には「織田信長の父である信秀の足軽を務めた木下弥右衛門」とされているが、大阪城天守閣館長の北川央氏は、その著書の中で、詳細に検証した。その結果は――(本稿は新潮新書『大坂城―秀吉から現代まで 50の秘話―』より再構築されたものです)。

秀吉はいつ生まれたのか

 豊臣秀吉の出生については、一般的に、織田信長の父・信秀の足軽を務めた木下弥右衛門と母(のちの大政所(おおまんどころ))との間に生まれ、姉一人がいたが、弥右衛門が早くに亡くなったため、母が筑阿弥(ちくあみ)と再婚し、弟の秀長と妹の旭が生まれたと理解されている。

 この通説の根拠になっているのは、土屋知貞の著した「太閤素生記(たいこうすじょうき)」である。

 土屋知貞の父は徳川家康に近侍し、知貞自身も徳川幕府の二代将軍秀忠、三代家光に仕えた。

 その「太閤素生記」には、尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)は、上中村、中中村、下中村に分かれていたが、「秀吉ハ中々村ニテ出生」し、天文五(一五三六)年正月元旦に、日の出とともに誕生したとあるのだが、いかにも英雄の出生譚らしく信じがたい。

 秀吉はのち、天下統一に邁進(まいしん)する中、何か事件や出来事があるたびに、右筆でお伽衆(とぎしゅう)の大村由己(ゆうこ)に命じ、自らの事績をまとめさせた。「柴田合戦記」「聚楽行幸記」など十三編が知られ、総称して「天正記」と呼ばれる。

 それらのうち「関白任官記」に「誕生の年月を算(かぞ)ふるに、丁酉二月六日吉辰(きっしん)なり」とあるので、秀吉の誕生日は、正しくは天文六年二月六日であったことがわかる。

種替りの弟妹

 さて、「太閤素生記」では、秀吉の父・木下弥右衛門は「中々村ノ人、信長公ノ親父信秀」(織田備後守)の鉄砲足軽であったとし、秀吉と姉とは父母を同じくする姉弟で、「秀吉八歳ノ時、父弥右衛門死去」と記す。

「太閤素生記」は、天文五年正月元旦誕生説をとるので、秀吉が八歳の時に亡くなったということは、弥右衛門は天文十二年死去ということになる。一般に鉄砲が種子島に伝えられたのも同じ天文十二年とされるので、弥右衛門が鉄砲足軽だったとは到底考えられない。

 そして「太閤素生記」は、織田信秀の同朋衆(どうぼうしゅう)であった竹阿弥(筑阿弥)が病気になって、故郷の中中村に戻り、後家となっていた秀吉の母と結婚して、「男子一人、女子一人、秀吉ト種替リノ子」が生まれたとする。その男子である秀長は、幼い頃、「竹阿弥子タルニ依リテ小竹ト云シ」ともある。

 秀吉とは「種替り」の弟とされる秀長は、天正十九(一五九一)年正月二十二日に亡くなり、享年五十二歳であったというから、彼は天文九年の生まれということになる。

 弥右衛門死去が天文十二年であるから、彼は弥右衛門の生前に生まれたことになり、彼が真実、竹阿弥の子であったとすると、秀吉の母は弥右衛門という夫がありながら、竹阿弥と関係を持ち、秀長を生んだことになる。

 あるいは「種替り」というのが誤伝で、秀長も秀吉と同じく弥右衛門の子であった可能性もあるが、京都の儒医江村専斎の著した「老人雑話」にも、天正十一年の賤ヶ岳合戦の際、秀長のふるまいに激怒した秀吉が、諸将の面前で「身と種違ったり」と秀長を罵倒したと記されている。

 専斎は、加藤清正に仕え、寛文四(一六六四)年に百歳で没しているので、秀吉と同時代を生きた人々の間では、秀吉と秀長は異父兄弟であるとの認識が一般的であったらしい。

 妹の旭は、天正十八年正月十四日に亡くなった。享年四十八歳であるから、彼女は弥右衛門が亡くなったとされる天文十二年の誕生ということになり、彼女の父を竹阿弥とすることについても、やはり疑問が生じる。

あやしの民の子

 このように「太閤素生記」の記述には疑問点が多く、そのまま鵜呑(うの)みにすることはできない。

「太閤素生記」より早くに成立した秀吉の伝記に「太閤記」がある。著者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、池田恒興・豊臣秀次らに仕え、寛永四(一六二七)年に刊行された。

 この「太閤記」には秀吉について、「父は尾張国愛智郡中村之住人、筑阿弥とぞ申しける」「筑阿弥が子なればとて、しばしが程は小筑とぞ呼給ひける」とあり、秀吉は「筑阿弥(竹阿弥)」の子であるとする。

 こうなると、もはや何が真実なのか、さっぱりわからない。

 秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛の子・重門(しげかど)が著した秀吉の伝記「豊鑑(とよかがみ)」では、「あやしの民の子なれば、父母の名も誰かは知らむ」としている。

 天下人になったのちも、秀吉は父の墓も菩提寺も建立せず、法要さえ営まなかった。

 母はともかく、父については「誰かは知らむ」とするのが正解かもしれない。(了)

デイリー新潮編集部

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。