「自衛隊の名称を国防軍とするべき」 前統幕長、元陸幕長が語る憲法改正

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ラオスで消息を絶った辻政信元陸軍参謀のケース

 いずれにせよ、軍備の充実なしには外交もままならない。その現実を否応なく思い知らされたのが、元陸軍参謀で戦後国会議員となり、ラオスの地で消息を絶った辻政信のケースである。

 参院議員だった辻は61年4月、池田勇人首相の密使として南ベトナム・カンボジア・タイ・ラオスを視察。ベトナム戦争回避を目指し、南ベトナムのゴ大統領の意向を北のホー・チ・ミンに伝えるべくラオスからハノイに向かおうとした寸前、左派のパテト・ラオ軍に囚われ、ジャール平原で銃殺されてしまう。

 たまたま犯人グループの一人を、現地の日本大使館付き職員が知り、職員はその男にひそかに辻の遺骨探しを命じた。が、ほどなくラオス政府は日本の大使に圧力をかけ、この職員を解雇させて国外追放とした。大使館には自衛隊員が出向していたものの行動は制限されており、現在まで辻の遺骨調査はストップしたままである。加えて、日本の国会議員も誰一人、友好国であるラオスに「同僚の遺骨調査」を要請できないでいるのだ。

 戦前は各国の日本大・公使館に駐在武官が置かれ、軍関係の調査、偵察に携わっていた。これが戦後は一変、防衛駐在官の名称で外務大臣の指揮監督下に置かれることとなった。防衛省に昇格しても、この構図は変わらない。

本来の「猫なで声外交」は

 ところで、1940年に刊行された『世界最終戦論』で知られる石原莞爾は関東軍作戦参謀時代、当時の幣原喜重郎外相に対して、

〈今の中国は昔の中国ではない。日本を上回る武器を持ち、満州には飛行場を持つ。関東軍は一機もない。いつまでも猫なで声での交渉では通じない〉

 そう進言していた。現地の邦人は虐げられ、北部満州から逃げ帰る人が絶えなかったのだが、「協調外交」で知られる幣原は姿勢を変えず、こののち石原によって柳条湖事件が引き起こされることになる。一方、日露戦争当時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、

〈外交とはビッグ・スティック(大きな棍棒)を持って、猫なで声でやるものだ〉

 と言ったという。「猫なで声外交」は世界共通のスタンスではあるものの、声色は平静を装いつつ、テーブルの下では絶えず蹴り合いが続く。これが本来の外交であるはずだ。

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