「自衛隊の名称を国防軍とするべき」 前統幕長、元陸幕長が語る憲法改正
「日本を守るための米軍基地」は大きな誤解
こうした情勢下、日本はいつまでも“まやかしの専守防衛”のままでよいのか、との不安は募るばかり。それでも多くの国民は、日米安保条約に基づき米軍が日本を守ってくれると信じ、一国平和主義にどっぷり浸かっているのが実情だ。先の冨澤氏は日米関係を「二世帯住宅」に例えて言う。
「1階に腕っ節の強い兄貴(米軍)、2階には力のない弟(日本)が住んでいる。2階の弟の部屋に強盗が入り、弟に頼まれたら下の兄貴が助けに行く。これは兄貴の集団的自衛。逆に下の兄貴の部屋へ強盗が入った時、兄貴に頼まれて弟が助けに行く。これは日本が集団的自衛権を行使したことになります」
その“兄貴”は町内の有力者で近所からも頼りにされており、
「町内の治安を守るため、リーダーシップをとって皆で“夜回り”をします。ところが2階の弟は、そこまでやる必要はない、と言って断る。この夜回りのことを、国際社会では集団安全保障と呼びます。多国籍軍や有志連合軍は、このカテゴリーに入ります」
ここで我が国はといえば、
「夜回りには参加しないが夜食ぐらいは出しましょうと、湾岸戦争の際に海部俊樹首相は130億ドル(当時1兆7千億円)を捻出しました。しかし米軍はあまりいい顔をしません。米軍が日本を守るために米軍基地があると考えるのは大きな誤解です。その形をとっていても、日本ではなく世界の秩序を守るため、リーダーとして関わっていきたい。そのための基地なのです」
日本に敵が攻めて来た時、米軍が率先して迎撃、追っ払ってくれると思ったら大間違い。“日本には専守防衛があるではないか。我々は基地が被害にあったら反撃に出るだけ”というわけだ。
撃たれながら待つ
かつて第3次佐藤内閣で中曽根康弘・防衛庁長官は、
〈日本の防衛政策は専守防衛〉〈力強い非核中級国家をつくる〉
などと述べていた。専守防衛とは、攻撃しないで守りに徹することを意味し、つまり敵が上陸した時は“本土決戦”となりかねない。攻撃は憲法上、許されないのである。「日米防衛協力のための指針」で、日本はいわば“盾”の役割。攻撃を担う“矛”は米国であり、従って日本の自衛隊は敵軍に撃たれっ放しとなる。もっとも、個別的自衛で武力行使は可能だが、それも国会の承認を得て、最高指揮官である総理大臣の防衛出動命令が出るのを待たねばならないのだ。冨澤氏が続けて、
「出動命令が出れば何でもできます。“敵と戦え”と言われた以上、手段を問わず武力行使できるのですが、グレーゾーン、つまり総理大臣の命令が出る前に相手が奇襲してきたら、手続きが整う前にバーンとやられてしまいます」
1978年7月には、こんな“事件”も起きていた。
「当時の栗栖弘臣統合幕僚会議議長が、“今のままでは自衛隊は何もできないから法律で決めてくれ”と訴えるかわりに“自衛隊は超法規的行動を取らざるを得ない”と発言してしまいました。これで金丸信防衛庁長官(当時)に解任され、以来この問題は、全く解決していません」(同)
上陸した敵に撃たれながら、ひたすら総理大臣の防衛出動命令を待たねばならないとは酷い話である。
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