袴田巖さんに異例の支援を続けたボクシング界 輪島功一さんが振返る裁判所への怒り【袴田事件と世界一の姉】

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巖さんに名誉チャンピオンベルトを授与

 現在、ボクシング界で中心的に支援活動をしているのは、元東洋・太平洋バンタム級王者で川崎新田ボクシングジム会長の新田渉世氏である。

 ボクシング界の支援について、「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長は「ボクシング界は控訴審から支援していましたが、ボクシング通の高杉慎吾さんが1979年9月に月刊誌『現代の眼』で袴田事件を冤罪として書いてくださり盛り上がりました。佐々木隆雄さんはひで子さんと何度も拘置所に通い、トクホンジム主催の試合では私たち支援者をリングに上げて支援を訴えさせてくれました。金平会長もとても熱心でした。今は新田さんや真部豊さんが力を入れてくださっています」と話す。高杉氏は名著『地獄のゴングが鳴った~無実のボクサー袴田巖』(三一書房 1981年)を著した。真部(まなべ)豊氏(53)は元ジュニアフェザー級王者。引退後もジムを経営しながら支援を続けている。

 巖さんが後楽園ホールのリングに上がったのが釈放から約2カ月後の2014年5月19日。釈放後、巖さんはしばらく入院し、ひで子さんが4月7日に名誉チャンピオンベルトを代理で受け取っていた。「この時はまだ、巖に渡さずに新田さんに預けたんですよ」(ひで子さん)。ようやく本人登場だ。

 普段着の巖さんは、会場に入る時からVサインをした右手を掲げていた。背広姿の大橋秀行会長からベルトを渡され、「名誉チャンピオン、はかまだー、いわおー」とリングアナウンスされると、満員の観衆に向かってVサインの右手を高々と差し上げた。新田氏がトロフィーを贈呈し、巖さんは花束を掲げてくるくると回った。その姿は、現役時代には成し遂げきれなかったチャンピオンの栄光に浸ったかのようだった。

 大橋会長は「みんなで力を合わせれば夢は実現するんだということを実感しました」などと挨拶。ひで子さんは「巖が生きて帰ってきてくれたのが本当に嬉しい。本当にボクシング界の方々のおかげです」と挨拶し感謝した。腰にベルトを巻いた巖さんは、2階席を見上げて今度は両腕を掲げた。場内は大喝采だった。

 新田氏に振り返ってもらった。

「私が袴田事件に関心を持ったのは遅かった。最初は『今さら』みたいな声もあったけど協会のみんなが協力してくれました。拘置所での面会はちんぷんかんぷんな話が多かったけど、話し方とかたたずまいからも、何か巖さんの哲学的な信念のようなものを感じました。釈放されてからは、ボクシングの話をしたがらなかったりもしますが、昔のことをシャットアウトしたいという気持ちもあるのでしょうか」

 ひで子さんについて「初めてお会いした時、歩くのがあんまり早くて驚きました。取材陣が付いていけなかった。気持ちは強いし、いつも明るいし、本当に尊敬できます。ある時、巖さんに『新田なんて知らない』と言われた僕がショックを受けてたら、『そんなことどうってことないよ』って笑い飛ばすんですから」。

 新田氏は「米国で殺人の冤罪を晴らしたボクサーのハリケーン・カーターさんは名誉チャンピオンベルト授与式の直後に亡くなりましたが、袴田さんの釈放を伝えてくれた女性によると、彼はとても喜んでくれていたそうです」とも明かしてくれた。

 東京拘置所にいつも同行してくれていた時のことを、ひで子さんが語る。

「新田さんには面会許可が出ていたけど同行してきた放送局の人たちは入れず、面会終了後に拘置所近くの公園で青空会見していました。新田さん自身もインターネットで面会状況を書いて発信していたんです。でもある時、拘置所職員から『そんなことしていたら面会させないぞ』と脅されたので、やめといたほうがいいよって言ったんです」

 ひで子さんと日程が合わない時も、新田氏は単独でも面会に通ってくれた。監獄生活で思考回路に変調をきたし、「俺に姉なんかいない」と言っていた巖さんも、ボクシングの話は通じたのだ。ひで子さんは「海外でも巖のことが取り上げられるようになったのは新田さんの発信力のおかげですよ」と感謝する。ところが「巖は家で名誉ベルトを見せると『そんなもの要らない』とか言ったりもしたんです。リングの上でそんなこと言わなくてよかった」と笑った。新田氏が言うように、巖さんは「よき日々」を含めて過去を忘却しようとしてもいるのだろうか。

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