「水谷豊」独占80分 松田優作との思い出、「相棒」の舞台裏、体力維持と老いを語る
「それはひとつしかない」。彼の胸には、そう人生の秘訣が刻まれているという――。浮き沈みの激しい芸能界にあって、長らく第一線で活躍し続ける俳優・水谷豊。親友の松田優作との思い出、「相棒」の舞台裏、そして体力維持と老いについて。80分の独占インタビュー。【松田美智子/作家】
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【写真4枚】水谷が「優作ちゃん」と呼んで親しんだ故・松田優作
「あんな長台詞(ゼリフ)を、どうやって覚えているんですか、とよく聞かれるんですよ。あれだけ大変なことをどうやっているのか、という意味だと思うんだけど……」
そう言って、彼はテレビ朝日系のドラマ「相棒」の裏側について語り始めた。思えば、交友の始まりは半世紀近く前まで遡る――。
彼に会うのは14年振りだった。松田優作の評伝を書く際に取材したのだが、当時と変わらず笑顔が人懐っこくて温かい。互いに20代で、優作と私が夫婦だった頃からの親交なので、つい、「豊ちゃん」と呼びかけてしまう。
豊ちゃんと優作の出会いは、日本テレビ「太陽にほえろ!」で共演したときだった。優作は初対面の人には身構えるのだが、豊ちゃんとはすぐに打ち解けた。
「今思うと、どうしてあんなに気が合ったのか。不思議でしょ。僕もね、当時は人見知りでしたよ」
「優作ちゃんには何でも言える」
「太陽にほえろ!」のプロデューサー・岡田晋吉は、まだ新人だった優作のサポートをしてもらうために豊ちゃんをキャスティングしたと語っている。
「僕は小さいときからこの仕事をやっていて、そういう意味では先輩だから、豊ならなんとかなるだろうという、岡田さんの思いがあったのではないですか」
優作は現場での豊ちゃんのさりげない気遣いを感じ取り、それが二人の距離を縮めたのだろう。以後は、年に何度か二人きりで会い、食事をするようになった。
「まだお互いに名前が売れる前に始まっているから、格好つけなくていいし。優作ちゃんには何でも言える、何でも話せるって感じがありましたね」
豊ちゃんはお酒を飲まない。ウイスキーのボトル1本を一晩で空け、酒席での武勇伝に事欠かない優作とは対照的だ。
「でも、僕と一緒のときに乱れたことはないですよ。なにがあったかという話も全部教えてくれたしね。優作ちゃんが入院したときも、すぐに電話がありました」
優作が膀胱の検査で入院したときから、最後の入院まで何度か見舞っているという。差し入れした珈琲を二人で飲みながら、楽しい話をして盛り上がった。
松田龍平、翔太との再会
豊ちゃんが元キャンディーズの伊藤蘭さんと結婚したのは、1989年1月、優作が膀胱ガンで亡くなる10カ月前のことだった。
「僕は蘭さんと2週間ほどニューヨークへ行くことになっていて、その前に二人でお見舞いに行ったんです。彼女が剥いた果物を、優作ちゃんが、おいしい、おいしいと言って食べてね」
その日の会話が最後になった。2週間後に帰国し、翌日の11月6日、優作が逝去したという連絡を受けた。
「そんなに早く亡くなるのなら、ニューヨークには行かなかっただろうなって、後になって思ったけど」
翌年、豊ちゃんに長女が生まれる。
「9月21日生まれでね、優作ちゃんと同じ誕生日だったからびっくりした」
それから32年が過ぎ、2021年は優作の33回忌にあたった。優作の子供たち、龍平、翔太、ゆう姫の3人は全員が芸能界に入り、それぞれのポジションで活躍している。
「龍平君には、小学生の頃に会ってるけど、その後は33回忌の法要まで会っていなかった。翔太君もそうです。優作ちゃんが亡くなったあと、僕は優作ちゃんの代わりに龍平君と翔太君と一緒に自転車に乗って、公園を走ったことがあるの。でも、それを話したら、翔太君は覚えていなかった。龍平君の方は『あの時の人だ』と思い出したって」
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