なぜ皇室崩壊の危機は訪れたか 「開かれすぎた皇室」が招いた眞子さんの結婚トラブル
英王室もオープンだが…
皇室制度に詳しい国士舘大学の百地章特任教授は、
「造語である『開かれた皇室』論が広く言われるようになったのは、やはりミッチーブームが大きかったと思いますが、その熱狂は“もっと皇室のことを知りたい”という興味本位の関心にもつながっていきます。開かれた皇室を国民が歓迎し、それに応えるようにメディアが、もっと開かれるようにと煽ったのです」
そう解説しながら、
「ミッチーブームと時を同じくして、長らく昭和天皇の侍従や侍従長を務めた入江相政さんが次々と著作を発表しました。彼は“皇室は、戦前のように国民との間に壁を作ってはならない。陛下は国民と直接触れ合える機会を”と主張し、昭和天皇の日常生活を書きつづりました。入江さん本人は“壁を取り払う”という使命感をもって書いたのでしょうが、これは越えてはならない一線だったと思います。まるで昭和天皇が友人のように登場し、結果として“皇室にプライバシーはない”かのような誤った風潮に繋がったことも事実です」(同)
当時は、英王室が理想であるかのように語られることも多かったのだが、
「英王室はそれ以前から非常にオープンで、ゴシップの対象にもなっていました。ただし、英国はあくまで階級社会という前提があり、王室と庶民とは違うという認識が明確にある上でのこと。日本のように“すべての国民が平等”という認識の社会で皇室がオープンになると、まるで皇室も一般国民も変わらないと勘違いする人が出てくるおそれもあります」(同)
大衆消費社会の中間層
そうした風潮は、むろん社会情勢とも無関係ではあるまい。慶應義塾大学の笠原英彦教授(日本政治史)が言う。
「ちょうどミッチーブーム前後の日本は、高度経済成長で大衆消費社会へと変化する過程にありました。テレビが普及し、雑誌の出版部数も増加するなど、メディアが多様化した時期でもあったのです」
前述した入江氏の著作も、そんな状況下で刊行されたわけだが、
「いわゆる中間層と呼ばれる層が分厚くなり、彼らはメディアを次々に消費するようになりました。こうした情勢で、皇室の方々も国民の目に触れる機会が急増し、オープンになったという印象が生まれたのではないでしょうか」(同)
また、昭和という時代の特殊性もあったといい、
「いまだ戦争を引きずっている人が大勢いる中で国民との距離を縮めるには、戦争に関わっていたというイメージの払拭がどうしても不可欠です。もちろん昭和天皇も、戦後の全国巡幸や犠牲者の慰霊を通じ、それをなさってきたと思いますが、やはり開戦に直接に関わっていない天皇の誕生という意味で、平成は全く新しい時代の訪れでした。“平和の象徴”となった皇室が国民に開かれていくことは、多くの人々に受け入れられたのです」(同)
これには、皇太子時代に敗戦を迎えられた上皇さまご自身の思し召しも大きかったという。さる宮内庁関係者が明かすには、
「上皇さまはご在位中、とりわけ戦没者の慰霊に思いを致され、これを実行なさってきました。直接の関係者ではないとはいえ、御父上の名で引き起こされた戦争について常にお心を砕かれてこられたのです。リベラルなお考えでいらっしゃる上皇さまのそうした礎は、少年時代に培われています」
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