自分への「タグ付け」をやめてみよう――ポスト・メリトクラシーの社会へ

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 ポスト・コロナの社会を見据えるうえで、誰にとっても一番大切になるのは「ポスト・メリトクラシー(能力主義)」という考え方です。

 これまでのメリトクラシー、つまり能力主義に代わりうるビジョンを、コロナ以降の私たちは模索していかなくてはなりません。

 本来それは、もっと前から考えておくべきテーマでした。しかし目をそらしたままでコロナ禍に突入し、そのために日本は大失敗をしてしまった。だからこそ2022年は、もともと私たちに突き付けられていた大事な課題と、向きあう年にしたいと考えます。

脳科学本ブームと「親ガチャ」は表裏一体

 昨年、マイケル・サンデルの新刊『実力も運のうち』(早川書房、邦訳2021年)が話題になりました。実力競争を国是としてきたアメリカで、実際に競争に勝つことで高い地位を獲得した哲学者が「能力主義だけで本当に社会を維持できるのか?」と問いかける姿は、日本人にとっても新鮮に映ったのです。

 同じく2021年には、「親ガチャ」が流行語大賞のトップ10に選ばれています。生まれる親がどういった階層でいかなる教養を持ち、どのように子どもに接する人なのかを、子どもの側は選べない。これはもうガチャを回す際の「くじ運」と同じで、外れを引いたらその時点で負けなんだといった諦観を込めて、若い人が使う用語ですね。

 この二つの現象は表裏一体で、ともに私たちがこれまで自明視してきた「能力」の捉え方に、再考を迫るものだったといえるでしょう。

 平成の末期以来、出版界で流行したのは「能力が高い人/低い人の違いは、遺伝子や脳の構造によって、生まれつき決まっている」といった(擬似)生物学的な決定論でした。これは一見すると、本人が持つ能力というものを極めて強く「必然化」して捉える(=絶対に変えられないものだと見なす)考え方です。

 しかしその人の能力が事実上、出生時に決まっているのなら、どんな遺伝子を継いで生まれるかを本人が選べない以上、すべてはガチャと同じで「偶然」だということになってしまう。才能がある人は「しかるべきゆえん」があって高い地位にいるのだ、といった能力主義を強調しすぎると、いつしかくるりと裏返って「結局は全部運だ」に戻ってしまうのですね。

 実はこれは、遺伝でなく「努力」を根拠にする場合も同じなんです。ある人が「努力によって」高い能力を身に着け、いまの地位を築いたとしても、それは本当に必然の結果なのか? その人の親がたまたま裕福で、あるいは教育熱心で、子どもが「努力」できる環境を整えてくれたのは、結局は偶然ではないのか?

 そう考えてみれば、どこまで行っても人の能力にまつわる「必然と偶然」とが、メビウスの輪のように癒着していることがわかるでしょう。

 2020年に刊行した『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)の中で、共著者の斎藤環さんに教わった、元プロ野球選手のイチローさんの「努力も才能のうち」という言葉があります。

 もちろんイチロー選手としては、「努力できるっていうこと自体が、自分の才能じゃないか」と励ます趣旨の発言だったのですが、斎藤さんが診療しているひきこもりの若者たちはむしろ、「努力って結局、『努力する才能』を持つ選ばれた人にしかできないんです。自分は選ばれなかったので、才能がないから努力できません」という風に受けとめてしまうのだそうです。

 能力というものを個人に帰属させるかぎり、それを「必然」だと信じ込める少数のナイーブな人以外は、「どうせガチャ運と同じ偶然で、根拠なんかないんだ」と自棄的になり、意欲や積極性を削がれていく。それがはっきりしたのが2021年でした。

自分に自信が持てない人が、他人に攻撃的になる

 まさに同じ理由により、今は「他人に敬意を持つ」ことが難しい時代になっています。

 自分自身の才能や成功をふり返って、「必然だけでなく、運にも助けられた」と謙虚に思うこと自体は、人間の成長において大事なステップでしょう。しかし目下の社会の問題は、同じロジックを「他人に」当てはめる人ばかりが増えたことです。

 田中角栄も松下幸之助も美空ひばりもいない今、分野を問わず、この人は「本当に自分の実力によって、必然ゆえに地位を築いたのだ」と思わせてくれる成功者は存在しない。それでみんな、勝ち組やセレブと呼ばれる人をちやほやしつつも、内心では「コイツが売れたのはたまたまで、しょせん運だけ」と思っている。

 だから些細なスキャンダルひとつで、手のひらを返してアンチに転じ、虚飾がバレて「ざまぁみろ」とばかりにバッシングする。誰にとっても生きやすい社会ではありません。

 昨日までは誰もが持てはやしていたスターが、明日には唾を吐きかけられる落伍者かもしれない。そうした状況では、どんな人も自分に「自信」を持つことができません。

 この「自信過少社会」が招いたのが、実は日本のコロナ禍の失敗です。わが国の新型コロナウイルスの感染状況自体は、世界的に見て「最優等生」といえるレベルだったのに、過剰な自粛や規制を濫発した結果、あまりにも多くのものを失ってしまいました。

 どうして令和の日本人は法的な強制力がないにもかかわらず、安易に「自粛の要請」に従ってしまったのか。昭和以来の「空気に流される国民性」といった議論が広く聞かれましたが、私は能力主義の限界にともなう「自信の喪失」という観点が大事だと思います。

 自分が普段やっている仕事に自信を持っていたら、「不要不急だから自粛しろ」「対面ではなくオンラインにしろ」と要求されたとき、まず反発心が湧くはずでしょう。ふざけないでくれ、俺は誇りを持って、社会のために必要な仕事をやっているんだと。

 ところがそういう人は、あまりにも少なかった。「政府がおかしなことを言ったら、学問に基づき批判するのが大学の自治だ」と唱えてきた教授たちも、唯々諾々とキャンパスを封鎖してネット配信に切り替え、いつ対面授業を再開するかは文科省の「指示待ち」状態。

 彼らは普段、研究業績ほかで自身の「能力」を誇ることに余念がありませんが、そこにはなんら、正しい意味での誇りも自信も伴っていなかったのです(詳しくは、昨年刊の拙著『歴史なき時代に』朝日新書を参照)。

 そして自分に自信を持たない人ほど、他人に対して攻撃的になる。それを証明したのが、いわゆる「自粛警察」です。

 本人が自分の仕事に意義を感じることができていないから、国から「要請」されただけでたやすく手放してしまう。そして、当人なりの誇りをもって仕事を続ける人の存在を理解できず、「お前の仕事や用事なんて(俺と同じで)別に価値ないだろ」「俺が自粛してんのに、なんでしないんだ!」と叩きはじめる。

 米国人サンデルの著書が示すように、能力主義で運営される社会が限界に直面しつつあるのは、世界共通です。しかし日本の場合は、その煮詰まり具合があまりにひどく、コロナ自体の感染状況や死亡率では屈指の恵まれた条件にありながら、人心を荒廃させる最悪級の「コロナ対策禍」を生んでしまいました。

能力の持ち主は、「その人」ではなく周囲との関係

 2022年は、そこからの出口を探す年でなくてはなりません。

 日本のコロナ禍が悲惨な失敗を見たのは、能力主義(がもたらす弊害)の行き詰まりに対応すべき局面で、逆に「遅れてきた能力主義」を振り回してしまったからです。コロナ以前には誰も知らなかった医師や疫学者をにわかに「専門家」として持ち上げ、この人はすごいのだと「能力」を喧伝し、同じ才能を持たない者は黙って従えと高唱する。

 その結果が過剰自粛であり、日本人どうしの信頼の崩壊でした。

 私はこうした、特定の専門家だけを必要な能力の持ち主だと言い張る発想の土台にある、そもそも能力を「個人のもの(所有物)」と見なす考え方自体を、乗り越える必要があると考えています。

 能力は「その人のものだ」とする捉え方は、一見すると自明の前提のように錯覚されがちですが、実は違う。本当は能力を持つのは、その人をめぐる「環境」あるいは「関係」であって、ひとりひとりの「個人」ではないのです。

 アメリカの過酷な競争社会の裏面には、実は「マッチング」という発想もあるのだとよく指摘されますね。たとえばある研究者が、任期付きのハーバードの教員にはなれたけど、テニュア(終身在職権)は得られず、サンデル教授のようには残れなかったとします。

 しかし、それはその人の能力が低いのではなく、あくまで同大の学風とは「合わなかった」(マッチしなかった)のだと捉えて、より斬新な研究が好まれるシカゴやカリフォルニアならマッチするかもと再チャレンジする。本人も周囲の人も、別にハーバードに残れなかったことを、負債のようには見ない。

 そうした慣行を支えているのは、能力を個人単位で捉えるのではなく、周囲の人間関係や職場の環境との「相性や噛みあわせ」の良し悪しとして、把握する発想です。

 これに対し、日本の能力主義がアメリカよりもひどい帰結を生んでいるのは、ひとつの場所で失敗しただけで「そもそも人間としてダメなんだ」と烙印を押すような、個人という単位ばかりを能力の「主体」(持ち主)と見なす風潮が強すぎるからなんですね。

 私がこの問題を初めて論じたのは、平成の終わりに刊行した『知性は死なない』(現在は文春文庫、2021年)の結論部でした。近日では古市憲寿さんも、昨年刊行された『楽観論』(新潮新書、263頁)の中で、能力も含めた「ほとんどのことは『属性』ではなく『状態』だと思っている」と表現されていたのが印象に残っています。

自分の「タグ」を外すことで、能力主義を乗り越えよう

 平成のあいだ、能力主義というテーマは「新自由主義」の弊害として議論されがちでした。昨年出版した『平成史-昨日の世界のすべて』(文藝春秋)で詳述しましたが、新自由主義という用語が日本で普及したのは2000年代の半ばで、「格差社会」への批判とワンセットになっていた。今思えば、それがミスリードだったのかもしれません。

 経済的な格差と絡めて能力主義の問題を扱うと、しばしば「能力があるからといって自分だけが勝ち組になり、贅沢をしているやつはけしからん」といった言い方になりがちです。言われた方は「俺がどれだけ苦労してきたと思ってるんだ」という気持ちになるから、面白くない。

 結果として「私の能力はすべて私が努力して得たもので、必然です」と言い張るようになり、ますます能力主義の矛盾が加速するんですね。

 それではどうやって、この困難を脱け出すのか。『知性は死なない』にも記しましたが、2015~17年の間、私がうつ病からの復職を目指すリワーク施設に通っていた際の体験は、小さなヒントになるのではと思っています。

 これも平成末期からの風潮として、「カミングアウト」のブームみたいなものがありますね。もともと能力主義的な競争で自分が「勝っている」と思う人は、現職や学歴、実績、保有する資格などをSNSのプロフィールに入れることが多かった。

 それが近年はむしろ、病気であったりマイノリティであったりといった、現状の社会ではマイナスの要素としても扱われがちな「属性」を、あえて記入する人が増えています。

 もちろん、それ自体は社会にとってポジティブな変化です。しかし一方でそうした風潮が、やはり「個人に帰属する」指標ばかりを利用して、その人の価値を判定しようとする発想を助長してしまうなら、同時に危うさも秘めていると感じざるを得ません。

 カミングアウトできる社会は大切ですが、それがカミングアウトを「強いられる社会」になってしまったら、とても変なことになるでしょう。実際、本人にとってもつらい思いをしてきた属性をプロフィールに掲げる営為には、なんらかの「タグ」を自分に付けないかぎりは社会で見つけてもらえない、自分の発言を聞いてもらえないといった切迫感を感じます。

 それはまさに、キラキラした履歴書を更新し続けなければ「いつか、自分は相手にされなくなる」という強迫観念に憑かれた、能力主義の勝者たちが抱える不幸とも表裏一体なんですね。

 だから私がリハビリの体験から可能性を見出すのは、むしろ「逆カミングアウト」なんです。つまり自分という個人に付帯している属性を、いったん全部捨ててみる。

 「自分はこういう人間です」として属性を示さず、黙っていても、リアルな身体が目の前にあるだけで、対面でなら意外と人間って話しかけてもらえるものなんです。私はそのことを、うつで発声困難な状態で入院した時に知りましたし、だからリハビリ施設の中でも、履歴書的な話は一切しませんでした。

 今にして思うとそれが、一番回復に役立ったわけです。

 私の場合は病気の前に歴史学者をしていたけど、歴史の話なんか一切せず、「自分は大学で准教授をやり、複数の著書も書いたので、能力はあると思います」なんてPRしなくても、周りと一緒に楽しめるし人間関係は築ける。そこから来る安心感というのは、カミングアウト「していない」からこそ得られているわけですね。

 そうしたタグ付けによらない、個人ごとに仕切られた指標とは異なる自己承認のあり方があって初めて、健全な形で「環境」や「関係」に基づく能力は開花するのだと思う。それが、私の考えるポスト・メリトクラシーへの第一歩です。

 2022年にはいよいよ、コロナ禍で抑圧されてきた「対面」の場が本格的に戻ってくるでしょう。そのときこうした「タグなしでも別にいいんだよ」とする感性を、どれだけ私たちは発揮できるか。そこにこそわが国の、ポスト・コロナの帰趨がかかっていると思います。

與那覇潤
1979年、神奈川県生まれ。評論家(元・歴史学者)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史なき時代に』、『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞。

Foresight 2022年1月4日掲載

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