「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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膨らむ借金

 1945(昭和20)年11月、晋三は帝国人造絹絲の社長に就任した。ほぼ同時期に、晋三は鳩山一郎の紹介状を持って、「森田政義先生の選挙地盤を受け継がせて欲しい」と頼みに行って、政子と出会うのである。

 1947(昭和22)年、帝人の社長のまま参議院選挙に当選。翌年発足した吉田茂内閣で商工大臣に就任したため、社長の座を退くことになる。

 その後、政治家としての活躍が続き、大蔵大臣、運輸大臣を歴任した。政治経験なしの1年生議員が大臣になったわけだが、戦後の混乱期でなければ、このような離れ業を演じることはできなかったろう。

 大臣の給料は家に入れないばかりか、帝国人造絹絲が立て替えた選挙資金を含めて借金は膨らむ一方だった。

 仕方なく政子が働くようになったという。

 帝国人造絹絲(1962[昭和37]年に帝人に商号変更。以下、帝人と表記)は、戦時中までレーヨンの生産量で世界最大を誇る有数の繊維メーカーとして君臨していた。しかし、敗戦によって日本の化学繊維工業は壊滅状態となり、その空白の間を縫うように欧米で合成繊維が開発され、大きな成果を収めていた。

レーヨン帝国の終焉

 レーヨンが天然素材を原料とした化学繊維であるのに対して、合成繊維は高分子化学によって作り出される。帝人がレーヨン帝国を築き上げている間に、ライバルの日本の繊維メーカーは合成繊維に注目した。特に東洋レーヨン(現・東レ)は米デュポン社が開発したナイロンに着目し、戦後、ナイロン技術の導入に成功した。他社が化繊メーカーから総合化学メーカーへと脱皮しようとした時代に、帝人は相も変わらずレーヨンの栄光に酔いしれ、過去の夢を貪っていた。

《東洋レーヨンがナイロンの開発に成功し、その独占の威力を発揮し始めた1953年9月期決算で、帝人の業績はついに東洋レーヨンの後塵を拝し、以後その差は開くことはあっても縮まることはなくなっていった。帝人「レーヨン帝国」の終焉であった。そして1956年6月、もはや斜陽に立つ老大国と称された帝人に、1人の男が呼び戻された。冒頭に登場した男、大屋晋三である》(野村インベスター・リレーションズ運営のIRマガジン2001年3~4月号『先駆者たちの大地』)

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