「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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人造絹糸の“父”

 ところが大正12年9月に突然、本社から帰国命令が出される。「肌の白い女を、半年の間に全生涯の半分ほど抱いた」と豪語する新米社員のご乱行について、上司から睨まれ、帰国を命じられたのだ、という。上司の了解も取らずにどんどん仕事に突き進む晋三は上司からあらぬ中傷を受けたと、『私の履歴書』で釈明している。

 人を人と思わぬ、傍若無人に振る舞う若僧に、鈴木商店の大番頭・金子直吉が目をつけた。1925(大正14)年、金子の勧奨により、帝国人造絹絲(現・帝人)に派遣された。晋三31歳。これが帝人との運命的な出会いとなる。

《日本の人造絹糸の歴史は金子直吉とともに始まる》

 帝人50年史の始まりの一文である。東京帝大応用化学科卒で米沢高等工業学校(現・山形大学)講師であった秦逸三と東大時代の同窓である久村清太は人絹を研究し、金子に援助を求めた。

 1918(大正3)年、山形県米沢で帝国人造絹絲を設立し、初代社長には鈴木商店の創業家の鈴木岩蔵が就任した。日本最初の化学繊維工業、大学発ベンチャーのはしりであった。

昭和金融恐慌

 晋三が入社した頃には広島工場も軌道に乗り、新たに山口県岩国に近代的な大工場を建設しようという矢先だった。晋三の任務は岩国工場建設事務所長として、土建屋相手に迅速に工事を推進することだった。1927(昭和2)年2月、岩国工場はオープン。レーヨン長繊維の生産を開始した。

 だがその年、親会社の鈴木商店が倒産した。

 金子は商売で得た利益のすべてを新事業や技術開発につぎ込み、それでも足りない分は銀行から借りまくった。手がけた事業は、鉄鋼、金属製錬、造船、人絹、重化学、食品、ビール、海運、倉庫、流通、保険など、驚くほど広範にわたっていた。鈴木商店の関係会社は約80社にのぼった。

 今につながる企業を列挙してみる。神戸製鋼所、大日本セルロイド(現・ダイセル)、帝国人造絹絲(現・帝人)、帝国麦酒(現・サッポロビール、サツポロホールディングス) 、播磨造船(現・IHI)、クロード式窒素工業(現・三井化学)、日本商業(現・双日)など枚挙にいとまがない。

 第一大戦終了後、不況が深刻化する1922(大正11)年、ワシントン軍縮会議の合意に基づいて軍艦の製造中止命令が出たことが、鈴木商店の重工業部門に痛撃を与えた。追い打ちをかけるように1923(大正12)年の関東大震災に見舞われた。1927(昭和2)年、台湾銀行の融資打ち切りで鈴木商店は倒産に追い込まれた。鈴木商店の倒産が昭和金融恐慌の引き金を引いたといわれている。

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