ネット上で盛り上がる「愛子天皇待望論」 女性天皇はこれまで8人 波瀾万丈の人生を専門家はどう見ているか

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激動の時代に直面

 8人目の女性天皇は、第117代の後桜町天皇(1740~1813)。現在のところ最後の女性天皇ということになる。

「1762年に第116代の桃園天皇(1741~1762)が崩御します。2人は母親は異なるものの弟と姉という間柄でした。第118代の後桃園天皇(1758~1779)が即位することは決まっていましたが、まだ5歳と幼く、宮廷内で対立もありました。そこで近衛家や一条家といった、いわゆる五摂家が秘かに対策を練り、桃園天皇の遺言という口実で、後桜町天皇の即位が決まるのです」(同・記者)

 歴史学者で皇學館大学文学部教授の松浦光修氏は、こう語る。

「総じていえば、皇位継承を巡って何らかのトラブルが発生し、『とにかく次代に皇統を正しく繋ぐ』ことを要請されて、女性天皇は即位されました。ある意味では、歴史の激動期に向かい合うことを余儀なくされ、皇統の男系継承の伝統を守るため、重責を担った女性たちとも言えるのではないでしょうか」

 8人の女性天皇で、即位してから子供をもうけた例はない。もしそのようなことが起これば、更に皇位継承の問題が複雑化することを熟知していたからだろう。

後桜町天皇の和歌

 これを現代の観点から「恋愛や結婚、出産の自由を阻害されていた」と指摘することも可能ではある。

「実際、女性天皇は、宮中でも様々な困難に直面していたと考えられます。一例を挙げれば、宮中祭祀です。神道では伝統的に『月の御障り』を忌みます。大相撲の土俵に女性が上がれない問題は、常に議論されています。天皇が自ら行う宮中祭祀のうち、その観念から女性天皇は祭祀を遠慮されていたのでしょう。江戸時代の女性天皇である明正天皇も、後桜町天皇も、宮中祭祀を遠慮されています。恐らく次代の男性天皇の即位までは、天皇が自ら行う祀(まつり)を中止されていた、ということではないでしょうか」(同・松浦教授)

 何としても次代の天皇に“繋ぐ”ため、できる範囲で天皇としての職務を全うする──日常の仕事にも困難を感じていた女性天皇の姿が浮かんでくる。

 最後の女性天皇である後桜町天皇は、和歌に秀でていたことでも知られる。約1600首とも言われる作品の中に、次のようなものがある。

「まもれなお 伊勢の内外(うちと)の 宮ばしら 天津日嗣(あまつひつぎ)の 末永き世を」

「この御製は、皇位継承が正しく続くよう、伊勢神宮の神に祈りを捧げられた和歌です。正しい皇位継承がどれほど難しいか、誰よりも実感したのは女性天皇かもしれません。ただし1点、注意が必要です。現代人が今日的な観点から、『女性天皇は政治的に利用されていた』とか、『大きな歴史の流れに翻弄された』と論評することは可能です。しかしながら、8方の女性天皇は、天皇であることの負担は感じていらっしゃったでしょうが、それよりも、悠久の皇統を守るという御自身の使命のほうをより強く感じ、その重責を誇りをもって遂行されていらっしゃったのではないでしょうか」(同・松浦教授)

道鏡の“隠し子”

 皇族には、皇位継承の重要性が骨の髄までしみ込んでいる。そのため、歴代の女性天皇は即位にあたり、苦渋の決断や悲壮感という感覚は存在しなかったのではないか、と松浦教授は指摘する。

「ある意味、それをご自身の運命として受け止められ、ごく自然な気持ちで即位された可能性もあると思うのです。今の言葉を借りれば、皇位継承という“公”のほうが、“私”よりも重要だと考えていらっしゃったはずです。正しい皇位継承のため、できることなら何でもする、それは皇族としては当たり前のことである、という意識は、当然お持ちになっていらっしゃったのではないでしょうか」

 女性天皇の歴史を辿ると、男系天皇を継続させようという天皇家の“強い意思”が浮かび上がってくるという。

「埼玉県行田市から出土した『稲荷山古墳出土鉄剣』の銘文を見ると、系図に記されている先祖の名前は全て男性です。古墳時代から男系継承の意識があったことが分かります。興味深いのは孝謙(称徳)天皇でしょう。寵愛されていた道鏡と男女の関係があったという推測は絶えませんが、2人の間に子供は生まれていません。他国の王室なら、子供が生まれて、その子供を巡る騒動が勃発していたでしょう。ですから孝謙(称徳)天皇にも、皇統の保持者は男系しかありえないという意識がおありだったのでしょう。やはり“公”と“私”は、きちんと区別されていたわけです。」(同・松浦教授)

デイリー新潮編集部

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