キヤノン「御手洗冨士夫」は二足の草鞋で失敗 3度目の社長復帰も次のなり手がいないという惨状
「財界総理」
2006年5月、御手洗冨士夫は日本経済団体連合会(経団連)の会長に就任した。IT(情報技術)業界から初めて財界総理が誕生した。私立大学出身者の経団連会長も初めてだった。
キヤノンは「経営に政治を絡めない社風」で知られていた。冨士夫に経団連会長の椅子を渡した奥田碩のトヨタ自動車には永田町担当の役員がいて、政界に目配りと心配りをしていた。これまで経団連会長を輩出してきた新日本製鐵や東京電力といった企業もしかり。
政界とのパイプがない御手洗冨士夫の会長就任は、財界人たちにとっては想定外の出来事であったようだ。
当初、“ポスト奥田”はトヨタ自動車の張富士夫副会長(当時、06年6月から会長)で決まりといった雰囲気だった。だが、「トヨタから(経団連会長が)2代続くのは好ましくない」と奥田自身が言い出し、トヨタ社内でも慎重論が強まったことから立ち消えになった。
新日本製鐵の三村明夫社長(当時、現・日本商工会議所会頭)がヤル気満々だったが、橋梁談合事件で新日鐵が摘発されたため、指名レースから降りざるを得なくなった。
本命が次々と消えて行くなかで経団連会長の座を射止めたのが、下馬評にものぼらなかった御手洗冨士夫である。
会長受諾の謎
冨士夫は「奥田さんから指名されて(会長を)受諾した」と自ら公表した。財界人たちは「政治には不案内な御手洗が断ると思って(奥田会長が)打診したところ、あっさり引き受けた」と陰口を叩いたが、後の祭りだった。
経団連の歴代の会長経験者が「御手洗クンでは務まらんよ」と難色を示したのも事実である。冨士夫は後年、「経団連会長というポジションは念頭になく、(奥田会長から)打診されたのは青天の霹靂だった」と語っている。
なぜ引き受けたのか? いまもってよく分からない。徹底して利益を追求するビジネスマンであった御手洗冨士夫は、経団連を「エレクトロニクス業界の業界団体を一回り大きくした程度としか考えていなかったフシがある」(キヤノンの関係者)。本当なのかしら!?
2006年5月24日に経団連会長に就任。その前日の23日に冨士夫はキヤノンの会長になり、副社長の内田恒二が社長に昇格した。「経団連会長になったのだから、社業は新しい社長に任せるだろう」といった外部の見方は完全に外れた。毎朝、早朝にキヤノンに出社し会長としての仕事をこなした後、東京・大手町の経団連会館に“出勤”して会長の執務をした。
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