キヤノン「御手洗冨士夫」は二足の草鞋で失敗 3度目の社長復帰も次のなり手がいないという惨状

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 御手洗冨士夫は1935(昭和10)年9月23日、伯父の毅と同じ大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)で、親兄弟親族すべて医者という家に生まれた。(敬称略。全2回の2回目/前編から続く)

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 医者になることを嫌った冨士夫は、中央大学法学部に進み検事を志したが、司法試験に不合格。卒業後の1961(昭和36)年、冨士夫によると「親孝行のつもりで毅のキヤノンカメラ(現・キヤノン)に入社した」。

 1966(昭和41)年、キヤノンが本格的に米国に進出する際に冨士夫は米国に渡り、23年間、駐在した。キヤノンUSAに出向した当時、社員は13人だった。後半の10年間は現地法人の社長を務めた。

 1995(平成7)年、本社の社長に急遽リリーフ登板し、米国流の実力主義と日本型終身雇用制を巧妙にミックスした「和魂洋才の経営手法」で躍進した。

 和魂洋才について、もう少し説明する必要があるかもしれない。実力主義を生かした終身雇用制である。23年間に及ぶ在米経験を生かした合理的経営を実践する一方で、社員重視の和の精神を忘れなかった。米国流経営の長所と短所を知り尽くしているからできることだった。

 日本企業がこぞって取り入れた社外取締役制度も、「CEO(最高経営責任者)がお仲間を呼んでくるだけ。お目付け役にさえなっていない」と冨士夫は厳しい評価を下した。株主は大事だが、日本企業の競争力の源泉は人材にあると冨士夫は確信していた。

「選択と集中」

 とはいっても、年功序列に安住するとチャレンジ精神がなくなり、向上心が鈍る。年功序列は企業の活力を失わせるという欠陥を持つと考えた冨士夫は、首を切らない代わりに年功序列は廃し、社内で競争原理を最大限に発揮させた。冨士夫流の米国型と日本型の「良いとこ取り」である。

 御手洗冨士夫は1995年から2006年までの11年間、第6代社長として経営を主導した。冨士夫の社長時代の実績は申し分ない。

 事業の「選択と集中」を実践。パソコンなど赤字事業から撤退し、プリンター向けのインク、カートリッジなどのオフィス機器とデジタルカメラに経営資源を集中した。その結果、デジタルカメラは世界ナンバーワンになった。

 在任中に連結売上高は1・5倍、営業利益は2・6倍に拡大した。売上高営業利益率は15・5%となり、欧米の有力企業に引けを取らない水準に達した。この間、株価は4倍強に跳ね上がった。

 株式時価総額は製造業でトヨタ自動車に次いで第2位になったこともある。御手洗冨士夫は名経営者と賞賛された。

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