「新春かくし芸大会」はなぜ生き残れなかったのか 1994年に迎えた大きな曲がり角

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アナウンサーに白羽の矢

 1988年、全世代が顔を知り、一定の親近感を抱いているということで、「かくし芸」が白羽の矢を立てたのは女性アナたちだった。

 同年の「かくし芸」にはフジの局アナだった八木亜希子アナ(56)や中井美穂アナ(56)らが登場し、「アナウンサー竹取物語」と題したミニドラマを演じた。だが、女性アナのブームはそう長くは続かなかった。

 1994年、「かくし芸大会」の減速は決定的になる。初めて視聴率が20%を割った(19.5%)。この年は「レコ大」も15.3%、「紅白」(第2部)も51.5%と低調で、往年の勢いを完全に失っていた。

 この年のレコード大賞はMr.Childrenの「innocent world」だったが、ミスチルは授賞式に姿を現さなかった。「レコ大」史上初のことであり、国民的番組は権威も揺らぐ。

 ミスチルは「かくし芸大会」に出たことがない。「当たり前だ」と言うなかれ。1960年代から1970年代はジュリーらトップアーティストが「かくし芸大会」に出場していたのだ。芸能界の仕組みや掟が根底から変わったのである。

 トップアーティストが出なかったら、「レコ大」も「紅白」も「かくし芸大会」も盛り上がらない。国民が多様化したばかりでなく、タレント側の活動や志向性も多様化した。「かくし芸大会」を含めた年末・年始の国民的番組はいよいよ曲がり角を迎えた。

「レコ大」と「紅白」が参加アーティストの意向を最大限に尊重したり、ジャンルを拡大したりで延命を図ったのと同じく、渡辺プロとフジも挽回を図る。1996年「かくし芸大会」を初めて生放送にした。

 生みの親である、すぎやま氏は「同時性と生放送がテレビの一番の武器」と言い続けていたが、生放送によって視聴者と一体感を生み、緊張感を高めようとしたのだろう。

 また、全世代が知るタレントが激減したこともあり、誰もが知る陸上選手の故フローレンス・ジョイナーさんと元阪神のランディ・バース(67)を出場させた。2人は「水芸」を見せた。

 番組開始当初のコンセプトから外れているように思えたが、スタッフは視聴者をつなぎ止めようと懸命だったようだ。その甲斐あり、視聴率は19.1%にまで回復する。

 翌1997年には内田有紀(46)がサーカスの空中ブランコに挑むなど芸は大掛かりになる一方だった。それを失地回復の切り札にしようとした。だが、視聴率は徐々に低下するばかりだった。

00年代の低迷

 ドリフ、クレージーといった番組の核となる人気者の不在が大きかった。また「芸で感心するよりネタで笑いたい」という視聴者ニーズの変化も強く影響した。歌だけで勝負する「レコ大」「紅白」より「かくし芸大会」は変革が難しかった。

 2000年代に入ると低迷は決定的になり、視聴率が8.7%に終わった2009年に終了が決まる。ラストとなった2010年の放送は9.2%だった。

 この間、堺は個人芸の鬼となって、トランプをナイフのように投げたり、難易度の高いテーブルクロス引きを見せたりして視聴者を仰天させた。

 故・ハナ肇さんは毎回、学校の銅像に扮し、生徒役のタレントたちにムチャクチャに扱われた。卵をぶつけられたり、雑巾で顔を拭かれたり。究極のワンパターンなのだが、あまりにバカバカしく、毎回笑えた。

「かくし芸大会」全盛期はテレビ黄金期と重なる。この国に「茶の間」が存在した時代だった。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

デイリー新潮編集部

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