キヤノン創業者「御手洗毅」は産婦人科医 打倒「ライカ」で見せた「メイド・イン・ジャパン」の意地

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われわれは打倒ライカを目指す

 御手洗は自ら「技術も経理もわからない経営の素人」と公言してはばならなかったが、“ドクター経営者”はタダモノではなかった。

 戦後の混乱期、多くの企業が鍋や釜の生産に手を伸ばすなか高級カメラに固執し、海軍などの技術者を積極的に採用していった。給与は驚くほど安かったが、彼らがキヤノンの発展の中核を担うことになる。

《昭和二二年、キヤノンは創立一〇周年を迎えた。式典の席上、御手洗は「われわれは打倒ライカを目指す」と高らかに宣言した》(森部信次『キャノン 御手洗毅氏』日本工業新聞編『決断力(上)』)

《これを聞いた、日本光学の首脳が「何を大きいことを」と批判したと、聞き及んだ御手洗は「今にみておれ」と憤り、翌年には、日本光学のニッコールズレンズの使用を止め、自社開発のセレナーレンズに全面的に切り替えた》(前掲書)

 キヤノンとニコン。一眼レフカメラの双璧をなす両社の争いは、この時から始まったと言っても過言ではない。

 社名もキヤノンカメラに変更した(その後、キヤノンに変更)。「世界に出るにはブランドと社名は一致したほうが良い。Canonのスペルは世界共通に発音される」という理由からだった。

 1949(昭和24)年、東京証券取引所に株式を上場するにあたって、カタカナの社名は品格がないとひと悶着があったが、御手洗はキヤノンで押し通した。キヤノンはカタカナ社名での上場第1号となった。東京通信工業がソニーとなったのは1958(昭和33)年のことである。

「日本製は売れない」

 サンフランシスコ講和条約の締結前の1950(昭和25)年8月4日、キヤノンカメラ社長の御手洗毅は羽田からアメリカンワールド航空機で米国に旅立った。

 鞄の中には「打倒ライカ」の夢を担った試作機が収まっていた。ライカにもない「一眼式連動距離計」と「レール直結フラッシュ同調装置」を備えた最先端を行く35ミリカメラであった。

 この試作機を帯同して、シカゴのベル&ハウエル社に全米の販売代理店になってもらうべく乗り込んだ。29歳の新社長、チャールズ・H・パーシーにアポイントが取れた。

 ところが、「これからヨーロッパに新婚旅行に出るので、1カ月後でよければ」というふざけた返事だった上に、1カ月後、ようやくパーシーと会うことができたが、反応は冷ややかだった。

《我々の技術陣があらゆる角度から検討した結果、ライカより数段上のカメラだと評価できる。しかし、営業部門の検討結果は残念ながら「ノー」だ。メイド・イン・オキュパイド・ジャパンというのは致命的だ。これがドイツ製ならホットケーキのごとく売れるだろう。さらにいえば、貴社の木造工場にも懸念を抱いている。もし火災でも起こして供給が途絶えれば、わが社の信用が傷つくことになる》(前掲書『決断力』)

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