キヤノン創業者「御手洗毅」は産婦人科医 打倒「ライカ」で見せた「メイド・イン・ジャパン」の意地

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打倒ライカ

 ドラマの発端は1933(昭和8)年にさかのぼる。

「敗戦国ドイツにしてライカ有り。日本は紡績では世界に肩を並べるまでになったが、精密工業なくして発展なし」

 カメラ好きの3人の青年がビヤホールで気勢をあげていた。内田三郎、吉田五郎、御手洗毅である。

 御手洗は当時、日本赤十字病院産婦人科医局に勤務していた。

 内田は山一證券に務める証券マンだった。御手洗とは、内田の妻を診てもらった縁で親交が深まった。内田の妻の兄が吉田で、カメラ好きが昂じて映画用の撮影カメラや映写機の修理・改造をやっていた。

 吉田は特殊な部品を買い付けのために上海に渡り、現地の米国人に「おまえの国は軍艦はできても小さな部品はできないのか」とからかわれたことを悔しがった。

 ジョッキ片手の御手洗は「病院にある顕微鏡も、すべてドイツのツァイスかライカだ」と、吉田の言葉に鋭く反応した。

「ほかがやらないなら俺たちでライカやコンタックスに負けないものを作ろうじゃないか」と気炎をあげたのが吉田である。

 酔いが回るうちに、自分たちの手でライカのようなカメラを作ろうという話に発展した。「大胆といおうか、無謀といおうか。今考えるとぞっとする」と御手洗は、後に回想している。

第1号カメラは「観音」に由来

 1933(昭和8)年、吉田と内田は、東京・六本木の木造アパートの3階を借りて、精機光学研究所の看板を掲げた。中心人物は機械いじりが好きだった吉田である。ライカのような高級カメラを作るためには、多額の資金が必要になる。吉田が創業のパートナーに選んだのが義弟の内田だった。

 翌年、内田の山一證券時代の部下、前田武男(2代目社長)が加わった。彼らが志したのは、35ミリカメラの最高峰、ドイツのライカである。

 その頃、銀行員などエリートサラリーマンの初任給が70円だったのに対して、ライカは420円もした。ドイツ製の高級カメラは、庶民にはまず手が届かない高嶺の花だった。

 吉田のカメラ作りは本格化し、翌1934(昭和9)年、国産初の35ミリカメラ「KAWANON=カンノン」を試作した。価格は200円。カンノンと命名したのは吉田が観音教の信者だったからだ。吉田は観音菩薩を篤く信仰していた。やがて語呂のいいキヤノン(Canon)に変更し、本格的に市販された。

 しかし吉田は、内田の知り合いで個人的に技術指導に来ていた山口一太郎陸軍大尉(後に二・二六事件に連座)と折り合いが悪く、わずか1年で精機光学研究所を去った。

 国産ライカを作った男として高い評価を得た吉田は、大手映画会社から依頼を受け、外国製映画用機材の改造・修理を引き受ける仕事を続けた。戦後、吉田は、アキハバラデパートで晩年まで働いていたといわれている。

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