キヤノン創業者「御手洗毅」は産婦人科医 打倒「ライカ」で見せた「メイド・イン・ジャパン」の意地

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 御手洗毅は1942(昭和17)年9月、精機光学工業(キヤノンカメラを経て現・キヤノン)の初代社長に就いた。(敬称略。全2回の1回目/後編に続く)

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 当時、主力製品は35ミリの高級カメラだったが、戦時中は高級品が売れず、日本光学(現・ニコン)の下請けの仕事で細々と食いつないでいた。

 その就任式で社員たちに、こう語りかけた。

「自分は諸君がご存知のとおり医師の出身だ。もし僕をだまそうとすれば、それは諸君にとって赤ん坊の手をねじるようなもので、いとも簡単にできる。僕は君たちを信用する以外にない。経理の担当者が帳面をごまかそうと思えばできる。工場長が1万円の機械を買っても、僕はその機械が1万円なのか1万5000円なのかもわからない。しかし、そんなことをやっていれば会社が潰れることは火を見るより明らかだ。そしてその責任は社長の私にある。私ともども、この会社を繁栄させていこうと思えば、みんなが誠心誠意やる以外にないではないか」

 御手洗毅は東京・目白で産婦人科病院を開業していた。

 朝7時に東京・目黒の工場に出勤して従業員を相手に朝礼をし、書類に目を通す。その後、自宅で着替えて、病院に駆けつける。病院に顔を出すのは毎日決まって11時頃だった。

《待合室はすでに妊産婦であふれ返っていた。「先生は毎日、往診が多くて大変ですね」。患者にいわれて、御手洗は返答につまった》(『20世紀日本の経済人II』日経ビジネス人文庫)

 産婦人科医と経営者。二足のわらじの生活は3年近く続いた。

病院を閉じる決断

 御手洗毅は1901(明治34)年3月11日、大分県南海部郡蒲江村(みなみあまべぐん・かまえむら)、現在の佐伯市で、代々医師の旧家の五男に生まれた。毅の甥が日本経団連会長やキヤノンの社長や会長を務めた御手洗冨士夫である。

 毅は地元の佐伯中学(現・佐伯鶴城高校)を卒業。「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク博士に共感して北海道帝国大学医学部に進んだ。1928(昭和3)年に卒業すると、翌年、上京して日本赤十字病院に勤めた。そして、内田三郎、吉田五郎との交遊が始まる。

 1935(昭和10)年、国際聖母病院産婦人科部長となり、この年、博士号を得た。1940(昭和15)年、東京・目白に御手洗産婦人科病院を開業した。

 1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、最高経営責任者である専務の内田がシンガポール司政官(占領地域の行政に従事する文官)に転出し、会社はトップ不在となってしまった。

「このままでは会社は潰れてしまう」という幹部社員の懇請で、御手洗はしぶしぶではあったが、社長を引き受けた。産婦人科病院は、ようやく軌道に乗ったところだった。しかし、会社を閉じてしまえば、自分が奔走して株主になってもらった人々を裏切ることになる。従業員の生活のことも考えて、産院は閉じた。

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