脳死状態で生まれた娘を10年育てた父親 今も不信が募る病院や医師の対応、そして苦悩の日々を告白
あまりに淡々としていた医師、「こんな重い障害を抱えることになろうとは」
彩名ちゃんのような医療的ケアが必要な子どもは、ここ10年で約1万人から2万人へと倍化した。少子化が進む中で「医療的ケア児」が急増する背景には、皮肉にも新生児医療の進化がある。医療の発展とともに救われる命が増えた一方、障害を持ったまま生をつなぐ子どもも増えているのだ。
「予定日を過ぎて数日後、陣痛がきたので病院に向かいました。たしか夜中の3時ぐらいでした。それから夕方まで定期的に陣痛がきていましたが、夜になっても子どもは出てきませんでした。妻の体力も限界でした。もし担当医が胎児心拍モニターを確認し、適切な医療介入(会陰切開)をしてくれていたなら、今、私の目の前を彩名は元気に走り回っていたんじゃないかって、10年経っても思いますね」
孝さん、そして孝さんの両親、妻の美琴さん(42=仮名)とその両親。みなが待ち望んでいたのだ、産声を上げる赤子を両手に抱えるその時を――。
医者の判断のもと、そのまま「自然分娩」が進められ、2011年7月20日の午後7時半、彩名ちゃんは生まれた。
「出産後すぐにカンガルーケア(註・親子のスキンシップを図ること)をさせようと、助産師が子どもを妻のところに連れてきました。すると、たまたまいた上級医が子どもの皮膚が紫色で、呼吸もしていないことに気づき、たちまちその場に緊迫した空気が流れはじめたんです。上級医は『母体と間違えたんじゃないのか!』と叫んでいました」
医師の叫びは、助産師らが胎児の心拍をモニターすべきところ、誤って母親の心拍を見ていた可能性をうかがわせる。孝さんら家族は退出するよう促された。部屋を後にした孝さんが目にしたのは、担当医が特に緊迫感もない様子で、どこかに搬送要請の電話をしているところだった。
「担当医があまりにも淡々と電話で話していたので、こんな重い障害を抱えることになろうとは夢にも思いませんでした」
その後、彩名ちゃんは、NICU(新生児集中治療室)が整備された高度医療機関に搬送された。
「数日後、搬送先の担当医があれこれ説明してくれました。でも、ほとんど覚えていないのです。それくらい告知の内容が衝撃だったんだと思います。それから3カ月ほどの記憶がないんです。仕事をして、病院に行って面会して、日々必要なことを繰り返すのに必死で、妻をかまってやる時間もありませんでした」
彩名さんはNICUに運ばれると、脳のダメージを緩和させるため低体温療法を受けた。医師の告知は、低酸素性虚血性脳症による多嚢胞性脳軟化症。いわゆる重度脳性麻痺だ。出生直後から体動がなく、人工呼吸器が装着され、経管による栄養投与が続けられた。
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