日活ロマンポルノ50周年 堕ちてこそ神々しい谷ナオミ…今も色褪せない3人の女優たち

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本能だけでつながる男と女のほうが動物としては正しい

 谷ナオミが「エロスの象徴」なら、「色気の代表」は宮下順子だ。それも作品によって「色気の色」が違うのが魅力的だ。

 たとえば『実録 阿部定』(1975年・田中登監督)。昭和11年、思想弾圧の厳しくなった日本。2月には二・二六事件が起こっている。その3ヶ月後、東京・荒川区の待合で、妻ある男を愛した女・阿部定が、彼を殺害、局部を切り取って逃走した事件の映画化だ。この作品を観ると、おそらく阿部定というのはこういう女だったに違いないと思えてくる。

 ふたりは待合にこもって、風呂にも入らずほとんど裸のまま、延々とまぐわい続ける。部屋にふたりの体臭や粘液の匂いがこもっているのが映像から伝わってくるのがすさまじい。定は、ただただ男を自分のものにしたかったのだ。その心理の揺れを、宮下順子が丁寧に演じている。黙々と男の局部を切り取る彼女の後ろ姿や真剣な横顔からは、男と一緒にいたいだけだという真摯な思いがわかる。阿部定をモチーフにした映画作品は数々あるが、実録と銘打っているだけあって、これが実際の阿部定の心境に近いのだろうと妙な納得感がある。それほど宮下順子の演技に説得力があるのだ。

 そして宮下順子といえば『赫い髪の女』(1979年・神代辰巳監督)だ。中上健次の小説『赫髪』を元にした作品だが、ロマンポルノの中でも傑作として評価が高い。この映画の宮下順子には名前がない。雨の中を歩いているところをトラック運転手の光造(石橋蓮司)に拾われ、そのまま光造の部屋で暮らし始める。ときおり、過去を話すがそれが正しいのかどうかわからない。ふたりはただ、真ん中に炬燵のある四畳半ほどの部屋で身体を重ね続ける。窓から雨が吹き込んでもおかまいなしだ。

 男と女はこれだけでいい。名前などわからなくても、しゃれた会話などなくても、つながっていれば、何もわからなくてもいいのだ。若いころ、この作品を観てそんなふうに思ったものだった。

 赫い髪の女は、インスタントラーメンもろくに作れない。水を入れた鍋をガスコンロに乗せて台所から炬燵の上に持ってくるとき、水がバシャバシャとこぼれるが、女はまったく意に介さない。かと思うと、「あんた、ラーメン食べるか」と光造に聞いて作り始めるのだが、卵を買ってこなかったと突然、ヒステリックに泣き出したりする。わけのわからない女なのだ。それでも光造にひたすら「して」とせがむ。自分の欠落した場所を補ってもらうかのように男を求め続ける女に対して、最初は哀れさを覚えるのだが、しまいにはたくましさが漂っていることに驚かされる。「わけのわからない女」を、これほど説得力をもって見せることができるのは宮下順子以外にいないだろう。

 恋だの愛だのといっているうちは、男と女のことなどわかりようがないのではないか。言葉でわかろうとすることなど本来不要で、本能だけでつながる男と女のほうが動物としては正しいのではないか。そんなふうにさえ思えてくる。

 光造は、生まれて初めて「嫉妬」という感情を覚える。それが女を愛することにつながっていく。女は「男のための道具ではない」のだと思い知った光造は、自分の姉夫婦に女を会わせる。だが、姉夫婦のデリカシーのない発言に彼女は傷つく。何かを抱えた女を、光造はただひたすら抱きしめる。周りが何を言おうと、女がどこから来ようと関係ない。目の前の、この肉体を持った女を、彼は本気で愛したのだ。女が愛されていることに満足しているのかどうかはわからない。そこがまた、宮下順子のすごいところだ。もしかしたら、またここからふいにいなくなるのではないかという不安定さをずっと保ち続けている。不安定は色気につながる。こうやってこの男女はつながっていくのか、あるいは突然関係が終わるのか。わからないままに映画は終わる。宮下順子のどこか寂しそうな笑顔、感じたときの輝く表情、不安そうな眼差しなどが、いつまでも脳裏に残る作品である。

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